ナイジェリアでの人質救出作戦の後、拠点に帰還した彼らは暫しの休暇を経て、次の任務のため、待機することになった。
待機の間は、来る日も来る日も訓練の毎日だ。
先日の作戦で、ミッチェルが溺れたということもあって、彼には特別に、水中での訓練が課せられている。水の中では義手が重たいのか、或いは状況下に慣れていない所為か、訓練のスコアはいまいちだった。
「容赦ないですねえ、ボス」
訓練用のプールサイドで完全に潰れているミッチェルを置き去りにして、ジョーカーは楽しげに笑った。
「安全装置がある訓練で死ねるような奴はいないんだ。あれくらい、甘い方だろ」
纏わり付く水滴を払うように、ギデオンは手を振る。ミッチェルが目覚めるまでの面倒は、対水訓練の係が見ることだろう。
トレーニングルームを出て兵舎に帰る途中、対格闘用リングの上から声が掛かった。
「よぉ、ギデオン。ご活躍だな?」
それは新人の訓練に飽きるほど付き合って、それなりに疲弊している時に聞きたい声ではなかった。内心うんざりとしたが、努めて表情には出さずに仰ぎ見る。
同じアトラス内に所属する、別部隊の隊長だった。
彼は、アイアンズの右腕として重要任務に関わることが多いギデオンを、目の敵にしている。ギデオンだけではなく、アイアンズの憶え目出度い新人のミッチェルも気に入らないらしく、何かと突っかかっているのを見かけたこともあった。
横目で伺ったジョーカーなどは、大仰に顔を顰めて、苦手意識を隠そうとすらしていない。
「お前んとこの新米は、デビュー戦で派手にやったそうじゃないか」
「ワイドショーで見たのか?お前のとこは留守番で残念だったな」
彼の隊は、あまり素行が宜しくないと耳にしていた。合同で動いたことはないが、気性の荒さ故か、一般市民を巻き込むことがあり、苦情が来ると聞いている。
アトラスはあくまで、民間の企業だ。所属する者の行いは、軍事産業だけではない場所での印象に関わるのだから、問題行動の多い者は当然、冷遇される。
「どんな手を使って媚びを売ったのか知らないが、社長を誑し込むのは、上司に似て上手いようだな?」
しかし、当人はその自覚がないらしい。
ギデオンは嘆息を堪えて、尤もらしく、指摘することを選んだ。
「ミッチェルはお前らと違ってお行儀がいいから、気に入られるんだろう」
「お行儀よく、ねえ……?」
ギデオンの返答を得た彼は、意味ありげで不愉快な目をしたまま、リングの端まで歩み寄ってしゃがみ込み、身を乗り出した。
「それで、アンタもあの坊やと寝たのか?」
「…………知りたいか?」
聞き捨てならない侮辱だった。しかしギデオンは彼に向け、とびきりの、よそ行きの笑顔を浮かべる。
それを見た我先にと、隣にいたジョーカーが後退った。
それが、合図だった。
***
ミッチェルがそれに気がついたのは、ここ数日のことである。
アトラスに入って二ヶ月と少し、初めての仕事を終えた後から、ミッチェルに向けられる他の社員の目線の険が減った。
完全に無くなったわけではないが、もの凄く遠巻きなものに変わったのだ。
少なくとも、直接因縁をつけてくる者や、あからさまに侮蔑の目線を投げてくる者は居なくなった。
初仕事の成果かと考えた時もあったが、そうすると、基地に帰還してから数日後に別の隊の者に絡まれたことのつじつまが合わない。
本当に、突然の変化だった。
「よお、ミッチェル。不景気そうな顔してどうした?」
そうして施設内の酒保でぼんやりしていたミッチェルに、陽気な声がかかる。
顔を上げて隣を見ると、ジョーカーがラガー瓶片手に腰を下ろすところだった。
「あれ、ギデオンは?」
「おいおい、俺だけじゃ不満か?ボスなら部屋に戻ったよ。読みたい本があるんだとさ」
「へえ……」
ミッチェルは酒保をぐるりと見渡してから、再び視線を戻した。矢張り、そもそもミッチェル達のほうを見ている者の方が少ない。
「どうした?」
「いえ、ちょっと……」
話すべきかどうか迷って、開けた儘だったビール瓶を一口呷る。訓練後に飲む酒はいつだって格別だったが、それを楽しむよりも、最近感じている違和感が勝ってしまう。瓶に口を当てたまま、ミッチェルは眉を寄せて呻いた。
「……最近、周囲が変わったなと」
どう説明したらいいのか、迷いながらも、呟く。
すると、ジョーカーは事も無げに何度も頷いた。
「ああ、そういう」
訳知り顔を訝しむミッチェルに、ジョーカーは屈託無く笑って、痛い位の勢いで彼の背を殴打する。
「はっはっは!コネで入社したミッチェル君は、周囲のやっかみが急に無くなったのが不思議なわけか!」
「いっ、痛い痛い!ちょ、やめてください」
ジョーカーはミッチェルの肩に肘を掛けると、彼の方に身を乗り出す。
「何でだか教えてやろうか?」
そして、これ以上無く含みのある笑みを向けてきた。
顔を寄せられ、ミッチェルはなるべく身を引いて距離を取りつつ、
「知ってるんですか?」
と、問うた。
ジョーカーは人を食ったような笑みを浮かべた儘で、姿勢を戻すと、ひらひらと空の瓶を振る。
「一杯奢ったら教えてやる」
「後輩に集らないでくださいよ」
ミッチェルは肩を落として文句を言いつつも、カウンターの奥にいる店員に向かって手を上げた。ジョーカーの持っている瓶を指し示して、注文をする。
店員は一つ頷いてから、ジョーカーが好きな銘柄のラガーを過たずもって来た。
ミッチェルがカードで支払いを済ませると、テーブルに肘をついて、ジョーカーを伺う。
彼は冷えた瓶にありついて、一口呷ってから、にんまりと笑った。
「ああ見えて、ボスが面倒見いいのは知ってるだろ。お前をよく思ってない奴のことは、当然把握してた。で、五日前、トレーニングルームで、ちょっとしたいざこざになってな。みんなが見ている前で、ボスはそいつを訓練ついでにボコボコにして、『ジャック・ミッチェルは俺の隊の、俺の部下だ。あいつに文句があるなら、今度からは俺が聞こう』って、盛大な啖呵を切ったわけだ」
その様子を思い出したのだろうか、ジョーカーは手を叩いて笑う。
「お前にも見せてやりたかった。最高のショーだったな!」
「それって、チャーリーのとこの隊だったりします?」
ボコボコにした、と聞いて思い当たり、訊ねると、ジョーカーは思い出し笑いを一頻りしてから、
「ああ、そこんとこの隊長だな。派手な顔になってたの見たか?」
と、目に涙さえ浮かべる。
派手な顔、というのが相応しいのかは分からないが、随分と目元を腫らしていたのを見かけた。そして、いつもはミッチェルを見ると嫌味の一つでも漏らすところなのに、一瞥しただけで去っていったのだ。
おそらく、それがギデオンとやり合った直後だったのだろう。
「アトラスでボスを敵に回したい奴なんていない。一番の実力者だからな」
「なんで……」
ぽつり、と疑問が零れた。
ジョーカーが指摘したとおり、ミッチェルはアトラスにはアイアンズの勧誘を受けて入った。スカウトといえば聞こえは良いが、ミッチェルは片手をなくした上、凡そ従軍経験も薄く、海兵隊で勲章の一つも得てない新兵だった。
まず、ギデオンの隊に配属されたのが、異例だったと言える。
ギデオンの隊は精鋭だ。アトラスのもっとも重要な任務は全て、ギデオンの隊が熟していると言ってもいい。過去の実績を閲覧したミッチェルは、それをよく知っている。
まして、配属にあたり、アイアンズは巨費を投じてミッチェルの片腕まで作成した。
端から見れば、何故彼が優遇されるか、理解した者は居なかっただろう。
アトラスはどこまで行っても、実力主義だ。実績さえない新米には、それらは全て過ぎた対応と言える。ミッチェル自身、周囲の反応も当然と思えた。
「ギデオンは……、自分でなんとかしろ、っていうタイプだと思ってました」
「基本はそうだな。けど、ボスは言ってたろ?悪くなかった、ってな。あの人が褒めるのは珍しいんだ。長らく訓練してたお前が、使えるって知って、多分ありゃ嬉しかったんだと思うぞ。まあ、お前最後の最後で溺れてたけどな」
余計な一言を敢えて付け加えた上で、彼は口角を上げる。
「自分の部下がいつまでも外野に悪し様に言われてるのは、気分が良くない、ってこったろ」
その一言で、ミッチェルは改めて、正しく自分はギデオンの隊の一員なのだという実感が沸いた。
「お礼を言ったほうがいいんでしょうか……」
「いや、ボスなら白を切るだろうなあ」
確かに、ギデオンはそういったことを素直に受け取りそうな人ではないと、ミッチェルも思う。
困惑を貼り付けるミッチェルに、ジョーカーは至って楽しそうに言葉を継いだ。
「ま、仕事で返すこった」
そして、それが一番的を射ていた。
「……そうします」
ミッチェルはそう答えるのが精一杯だった。嬉しいやら、照れくさいやらで、ミッチェルは其の儘、テーブルの上に頽れる。
突っ伏して唸り始めたミッチェルに、殊更、面白がってジョーカーは哄笑を上げた。
「俺らのボスは人誑しだろ。誑かされるなよー?」
***
扉は閉まっていなかった。
極力気配を殺して覗き込むと、ミッチェルと同じ造りの部屋ではあるが、異なる様相の一室で、ギデオンは聞いたとおりに本を読んでいるらしかった。
邪魔をしてしまうと知って躊躇していると、不意にギデオンが視線を上げた。
「……あ」
視線がぶつかり、硬直するミッチェルを咎めるでもなく、ギデオンは顎をしゃくって室内へ入るよう促した。躊躇いながら足を踏み入れるミッチェルを見届けること無く、ギデオンは再び手元の本へと視線を落とした。今時珍しい、ペーパーバックだった。
ミッチェルは少し迷ってから、ギデオンの対面にある椅子に腰を落ち着ける。
「何の用だ?」
訊ねる声は、相変わらず素っ気ない。だが、ギデオンの為人を知った今では、その素っ気なさは全く気にならなくなりつつある。
「えっと……」
ミッチェルは視線を泳がせて、言葉を探した。
実を言えば酒保を出た後、ジョーカーと別れ、自室に戻る筈だったのだ。ただ、自分の部屋の前まで来てから、ギデオンはどうしているだろうかと気になって、足を伸ばしただけだった。もし、扉が閉まっていたら、きっと、ミッチェルは其の儘自室に帰っただろう。
「……ええと……」
いつまで経っても答えを寄越さないミッチェルに、遂に訝しんでギデオンが顔を上げる。非常に怪訝そうな表情を前に、ミッチェルは焦った。だが、思考は空回るばかりで、上手い理由など浮かばない。
すると、ギデオンはふと、息を吐くように笑って、表情を緩めた。
「お前、酔ってるのか?」
「え? いえ。確かに飲みましたが、そんなには……」
「帰る部屋を間違えたのに、か?」
「……間違えたわけでは」
ない、と言いさして、ミッチェルは視線を逸らす。落ち着き無く下方を彷徨った視線を再びギデオンに戻すと、彼は何か思うところがあるのか、じっと、ミッチェルの返答を辛抱強く待っていた。
それに気がついて、思わずミッチェルは居住まいを正す。
「礼を……」
意図せず、言葉が零れた。
「礼を、言いたくて」
「何のだ?」
「色々です。この前だって助けて貰ったし、訓練だって……」
「仕事だからな」
しかしギデオンの返答は、短く、にべもない。
「そう、でしょうけど、……でも」
ただ、その言葉通りでも、決してそればかりではないことを、ミッチェルはもう知っている。
「それでも。ありがとうございます。色々と」
色々、という言葉に万感の意味を込める。それが伝わったのかは分からないが、ギデオンは、一つ短く嘆息を吐いてから、ややあって破顔する。
それを見て、ミッチェルは息を飲んだ。
「ギデオン。俺、一つだけ、アトラスでやりたいことができました」
そうして、胸に沸いた感情を言葉にするなら。
「俺はただ……。ただ、貴方に認められたい」
他の誰でもなく、あなたに。
身を乗り出してそう語るミッチェルに、ギデオンは目を剥いた。二つほど瞬いてから、やがて、困惑と呆れをない交ぜにした表情で、笑った。
「……熱烈だな?」
きっと、そのギデオンの感想は正しい。
ジョーカーは、ギデオンに誑かされるなと釘を差したが、
(もう、手遅れかも)
そう自覚して、ミッチェルは思わず苦笑を浮かべた。
<<