訓練は全て数値化され、分かりやすく推移が表示されるように出来ていた。加えて、映像記録の確認から、細かな分析も可能であった。
 画面に映されるミッチェルの訓練の数値と映像を暫く眺めていたギデオンが、やがて一つ頷き、ミッチェルの方を見向きもせずに、
「良くなってきたな。これなら別の任務にも就けそうだ」
 と、珍しく賞賛を送ったのだった。
「えっ?」
 聞き間違いではないかと耳を疑った彼は、思わず意味もなく声を上げる。
 そんなミッチェルへと視線を移したギデオンが、まじまじと彼を見、そして徐に告げる。
「ミッチェル。脱げ」
「……はあ?」
 今度こそ、聞き間違いであろうと彼は思った。



 ミッチェルの部屋を訊ねて来たジョーカーは、どうやらミッチェルの様子を人伝に聞き、それを見に来たらしかった。
「ぶっ……、はははははは!」
 無遠慮な哄笑を受けて、ミッチェルは肺を空にするほどの長嘆を吐いた。それと共に態とらしく項垂れて見せても、テーブルを叩いて笑い転げるジョーカーがそれを気に掛ける様子はない。
「笑いすぎだと思いますけど……」
「だっはは!わ、悪い悪……ぶっ!わははは!」
 半ば発作のようなそれを抑えようという素振りを見せた彼は、しかし、ミッチェルの顔を見るなり吹きだして、ついには嘔吐いてまで笑い出した。
 ミッチェルの右頬は今、酷く腫れ上がって普段の様相が様変わりしている。腫れた頬が右目を圧迫して視界は悪く、それ以上に見た目は酷かった。笑われるような見目になった自覚はあったが、かといって、笑われるのは酷く不本意だった。何せ、好きでそのような姿になったからではないからだ。
 ジョーカーの笑いは一度収まっても、再びミッチェルの顔を見ると始まる有様で、これは会話にはなるまいと悟ったミッチェルは、辟易しながら、背凭れに身体を預け、真白い天井を忌々しげに睨み、嵐のようなそれが収まるまで辛抱強く待った。たとえどれだけ不愉快でも、彼は先輩にあたるのだ。
 果たして、ジョーカーが漸くミッチェルの顔を見ても笑わなくなった頃には、ミッチェルの機嫌もすっかり急降下している。憮然としてテーブルに頬杖を突いた彼を、未だ頬を引き攣らせながら、ジョーカーが宥め始める。
「いや、悪かった悪かった。笑っ……、ぐっふ」
「……まだ続きます?」
「待て待て、止める。もう止める」
 言って、ジョーカーは視線を明後日の方角に泳がせた。それはそれで、見るに堪えないという意味合いを持っているようで、ミッチェルにしてみれば面白いものではない。しかしながら、笑われ続けるというのも愉快なものではないため、短く溜息を吐き、彼は賢明にもそれ以上は言及しないことに決めた。
「しかし、派手にやられたな?男前が上がってるぞ、うん」
「そりゃどうも」
 視線を向けない儘、結局その話題に触れるのかと、半ば捨て鉢になりながらもミッチェルは頷いた。そうして、頬に怪我を負った経緯を思い出す。
 アトラスの入社テストに合格してから、もうじき二ヶ月が経とうとしている。実際の任務は哨戒などの簡単なものが多く、ギデオンとの訓練と兼ねて半々といった日々を送っていたが、訓練結果を見ていたギデオンが珍しくミッチェルを褒めたのがきっかけだったように思う。
 突然エグゾスーツを脱ぐように言われたミッチェルは、次にギデオンの説明を聞いて、その日三回目にして、それが聞き間違いではないのかと耳を疑った。
「無茶苦茶ですよ。エグゾ相手に、丸腰で近接格闘訓練って」
「俺もやったことがあるぞ」
「ジョーカーも?その時はどうでしたか?」
「あ、いや、俺はお互いエグゾなしでやった」
「それじゃ普通の格闘訓練でしょう」
「まあでも、ボスの言い分はちゃんと聞いたんだろ?」
「……一理あるとは、思います」
 今日の技術進歩は目覚ましく、今や戦場でエグゾスーツを用いない軍隊は存在しないとも言われる。
 しかしながら、それらは便利な道具ではあるが万能では無い。必ず弱点が存在したし、使い手次第では役に立たないこともある。ギデオン曰く、道具とは往々にしてそういうものだと言う。それには、ミッチェルも同意するところだ。
「道具に頼るな」
「頭を使え、ですよね?」
 ギデオンが口癖のように言う言葉は、既に彼らも知っている。それを繰り返しながら、ミッチェルは腫れて熱を持つ頬を摩った。
 湿布は貼ってあるが、いつ元の見目に戻るかは、予想も付かない。
「優秀な道具を使いこなすに足る兵士であるように、って言うことだと思います。ボスが言う通り、道具は使う者次第ですから。でも、流石に力の差がありすぎるというか」
「今日はボスに一発で沈められたからって、弱気だなあ?新人」
「二発です。一発はちゃんと堪えました」
 実際のところ、その訓練は長続きしなかった。通常の近接格闘とは訳が違う。エグゾスーツを装備している相手の速さはともかくとして、力の差は歴然だ。相手の隙を突くかしなければ、到底太刀打ちできそうになかった。戦略なしに立ち向かうのは、あまりにも無謀だということを、ミッチェルは今日、身を持って学んだ。
 どう立ち回るか必死に思案しているミッチェルを他所に、ジョーカーは拳を一降りして、陽気に笑う。
「次は一発ブチ込んでやるんだな!」
「他人事だと思って。そんな簡単に行ったら苦労しませんよ」
「そこをなんとかする訓練だろ?ボスの訓練は死ぬほど厳しいけどな、あの人を失望させるなよ」
「まあ、そうありたいとは思ってます」
 素直に頷いたミッチェルを、口角を引き攣らせながらも漸く横目に捕らえたジョーカーは、別の意味合いを持ってほんの僅かに相好を崩す。
「しかしまあ、お前も良くやってるさ。ボスはお前には人一倍厳しいからな」
 その一言に引っかかりを感じて、ミッチェルは顔を顰めた。顔を少しでも動かすと、傷が痛む。
「……俺には、ですか」
「気づいてたろ?」
 日々の訓練を思い出し、ミッチェルは曖昧に頷く。
「はあ、まあ……そうですね」
「ボスへの愚痴なら、聞いてやらんでもないぞ」
 そうして、やっとミッチェルの見目に慣れたらしいジョーカーが、彼の対面から身を乗り出す。その目に宿る喜色を前に、厚意と取るべきか逡巡しながら、ミッチェルは痛む顔面に強いて口角を上げた。
「お気遣いどうも。でも、愚痴を言うようなことは、なにもないですよ?」
「本心か?」
「ええ」
 頷いてから、彼は自身に人一倍厳しいという、その人を思い浮かべる。
 確かに、訓練内容は他の社員と比べようもなかったし、また、ミッチェル自身の頬を見るまでもなく、容赦が無い。ただ、それには理由があるのだと知っている。
「ボスが、ギデオンが俺に厳しいのは、俺のためですから」
 事も無げに答えると、ジョーカーは身を引いてから、目を瞠った。驚愕を顕わにしたその様が、それが真実だと告げているようだった。
「正直、俺が此処に入った経緯を良く思わない奴は多いと思います。来たばかりの頃、ボスにも釘を刺されましたし。自分でも、待遇が良すぎると思いますから」
 厳しい訓練の理由について、疾うに思い至っていたことについて語り始めると、漸く驚愕が引いた面に、感心したような色を浮かべ、ジョーカーはテーブルに頬杖を突いた。
 それに構わず、ミッチェルは続ける。
「やっかみが無い訳がない。ジョーカーも色々、聴いてるでしょう?」
 その問いに、ジョーカーは戯けたようにして首を傾げるだけで、答えなかった。それは肯定と同義だ。
「ただ、口で何を言っても無駄です。此処は、そういう世界ですから。此処にいたければ、居られるだけの証明を立てる必要がある。多分、ボスが俺に課してるのはそういうことです。だから、誰より厳しい」
 それでも不満がないか、と問われると、首肯をするのは難しい。
 実際、訓練では幾度も倒れ、頽れそうになった。だが、その度に立ち上がってきた。立ち上がれたのにも、きちんと理由がある。地に伏して立ち上がれないと思った時に、飛ぶ厳しい罵声と共に、さしのべられる手はやはりギデオンのものなのだ。
「ボスには、感謝してますよ」
 それらを思い浮かべながら、率直に答えると、ジョーカーはただ頷いて、
「そうか」
 と、笑った。


 身を翻し、肘を叩き込む。
 瞬間、痺れと共に確かな感触が返って、一拍遅れて飛び込んできた視界に、よろけたギデオンの姿が見えた。その光景に、誰よりもミッチェル自身が驚きを覚える。
(入った!)
 だが、その手応えは浅かった。
 その証拠に、体勢を崩したギデオンは容易に踏み留まる。そして、顔を上げた刹那、その瞳に浮かぶ剣呑さは怒気にも、或いは殺意にも見えた。
 ミッチェルはそうして危害を加えた相手が、上司であることを今更ながらに思い出す。そうして彼の戦意が削がれたのはごく僅かな間だったが、ギデオンにはそれで十分だ。その隙を逃さず、踏み留まったその足が素早く動いた。身体を捻り込み、その膝がミッチェルの鳩尾に沈みこむ。
「がっ……!」
 仕返しとしては、かなり度が過ぎると言えた。まして、エグゾスーツで強化された蹴りをまともに喰らい、ミッチェルがその場に頽れる。
 だが、身を折って、嘔吐くように咳き込むミッチェルの呼吸が落ち着くまで、追撃は来なかった。
 ミッチェルが漸く落ち着いて顔を上げた時には、目の前にギデオンの手が差し出されている。
「お前は詰めが甘いな。訓練とはいえ、最後まで気を抜くな」
 口調こそ厳しかったが、その手はミッチェルが立ち上がるのを助けるためのものだ。或いは、その言葉も。まだ引き攣るような痛みを覚える鳩尾を摩ってから、ミッチェルはその手を取った。
「だが、よく当てた。今の感覚を忘れるなよ。不利な相手でも、逃げられない状況もある。そういうときは、相手の弱点を探せ。周囲に使えるものがあれば何でも利用しろ。頭を使って生き残れ」
 ギデオンが彼を引き上げ、立ち上がったミッチェルに向けてそう言い添える。彼の頬は、それと分かる程度に腫れている。どうやら、ミッチェルの肘が擦ったのは、左頬だったようだ。
 これ以上腫れなければいいがと危惧し、浅かった手応えを思い出して、心配には及ばないかもしれないとも思う。
 しかし、ミッチェルの心配を他所に、ギデオンは心なしか嬉しそうだった。彼は殴られた頬を気にする様子も無く、エグゾスーツを外し始める。
「さて、行くか」
「え……、何処にですか?」
 訓練を切り上げる時間には些か早い。ミッチェルは首を巡らせて時計を確認すると、やはり、夕刻にはまだ時間があるようだった。
 困惑するミッチェルを見て取って、すっかりエクゾスーツを脱ぎ終わったギデオンが、眉をつり上げて彼を睨め付けた。
「人の話を聞いてなかったのか、お前。エグゾ相手に一発でも入れられたら、飯を奢ってやるって言ったろ」
「……あ、ああ。そういえば」
 昨日の話ではあったが、訓練内容を聞いて呆然としていた際、そんなことを言われた記憶があった。もっとも、その後すぐに殴られて昏倒し、忘れていたが。
「訓練は今日は切り上げだ。何か食いたいものや、行きたい店はあるか?」
「え、ええと……」
 考えてはみたが、すぐには思い浮かばなかった。加えて、アトラスに来てから二ヶ月間、ほぼ訓練に明け暮れていたため、周辺の施設についても酷く疎いことに気が付く。
「ここに来てから余り出歩いたことが無くて、周辺に何があるかも良く知らないんですが……」
 正直に打ち明けると、ギデオンは目を瞠り、ああ、と声を漏らした。
「そうだったな。お前、休みはずっと寝てたな」
 そうせざるを得ない訓練内容だったのではないのか、と喉から出かけて、彼は危うく飲み込み、曖昧な笑みを浮かべる。代わりに、当たり障りの無い返答を選んだ。
「ボスのお勧めがあるなら、紹介してくれませんか?」
「そうだな。たまには外に出るのもいい。行くか」
 先導しようとしたギデオンの左頬がまだ赤いことを見て取って、ミッチェルは慌ててその後に続きながら呼び止める。
「あ、でもボス。頬の手当がまだ……」
 ミッチェルを肩越しに省みて、ギデオンは手を伸べ、湿布の貼られたミッチェルの頬を軽く叩く。しかし、まだ触れられれば痛みを覚えるそれを気遣うような、弱い力だった。
「大して強く当たって無い。ここまで不格好にはならんさ」
「不格好にしたのは、ボスじゃないですか」
「ああ。避けられないお前が悪い」
 そうして軽く笑んだ姿を見、やはり、彼は今機嫌が良いのだと分かった。厳しい訓練に対して、ミッチェルが及第点と言うに足りる結果を出したときは、決まって彼は機嫌がいい。いつからかは分からないが、ミッチェルは疾うにそれに気が付いていた。
 いつからか、ミッチェルが膝を突いても必ず手をさしのべてくれる様も、そうして結果を出した時にそれと気付くほどに喜んでくれる姿も、厳しい訓練を乗り越える一助であった。
 釣られて笑うと、頬が痛んだので、酷く不格好な笑顔になったに違いない。
「そうだ、ジョーカーも誘うか」
 再び歩き出したギデオンが、思い出したようにその名を呼んだので、ミッチェルが昨日の訪問を思い出してギデオンの頬を一瞥する。
「あ、ジョーカーですけど、昨日俺の所にきて、この顔を思い切り笑い飛ばして行きましたよ。多分俺とボスの今の姿を見たら、お揃いだっていって笑われるんじゃないですか?」
「あり得るな」
「というか、そうなると思います」
 昨日散々笑われたミッチェルとしては、その予感はほぼ確信に近いものだった。ジョーカーが笑い転げ、ギデオンが不機嫌になり、ミッチェルは間に挟まれて困惑する。ありありとその光景が脳裏に過ぎって、まだ起こっては居ない事態を予想しただけでもうんざりとする。
 だが、そのミッチェルに気付く様子もなく、ギデオンはふと何かに気が付いた様にしてミッチェルを見据えた。
「そうか、ジョーカーは昨日、お前の所に居たのか。……道理でな」
「え、何がですか?」
 何か得心がいった、という様子に、ミッチェルは首を傾げる。
「今朝、ジョーカーがお前について、妙なことを言っていた」
「妙なこと、ですか?」
「ああ」
 ジョーカーと交わしたやりとりを思い返し、ミッチェルは首を傾げた。思えば、ジョーカーはあまり長居をしなかったし、あの後すぐに帰ってしまっている。何か不用意なことを言った覚えはなく、ミッチェルは思わず立ち止まって首を傾げる。
 それに気が付いたギデオンは、同じく立ち止まって、彼を振り返って続けた。
「奴が言うには、お前は聡くてつまらないそうだ。一体何の話をしてたんだ?」
「あー……」
 その一言で、ジョーカーが立ち去る直前の遣り取りを思い出し、ミッチェルは唸るようにして声を上げた。
 ミッチェルが語った内容について、ジョーカーはギデオンに伝えなかったのだ。告げられてもいいように言葉を選んだつもりだったが、要らぬ杞憂だったと少し後ろめたく思った。
 訝るギデオンを一瞥し、ミッチェルは、
「秘密です」
 そう返答し、ややあって、声を上げて笑いだす。
「ははっ、やっぱりジョーカーも誘いましょう。ボス」
「あ?なんだ、急に」
「やっぱり人数居た方が、たのしいですよ」
 怪訝そうなギデオンを見、怪我をした自分をおとなうジョーカーを思い出し、ミッチェルは考えを改める。今の日々に、或いは、周囲の人に、不満に思うことなど何一つないと。
 良い仲間に恵まれた。今、この時、それ以上幸福なことがあるだろうか。
 ギデオンを追い越し、ジョーカーを呼び出すために社用の通信機を取り出しながら、ミッチェルは振り返る。
「それに、ジョーカーには、ボスを一発ブン殴ってやれって言われてたので。ボスのその顔、見せてあげないと」
「ああ!?」
 ギデオンが渋面を浮かべるの確認しながら、ミッチェルはただただ、楽しそうに声を上げて笑った。





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