皆一様に慌ただしく動き回る中、ベルはぼんやりと診療台に腰を降ろした儘、それを見ていた。
「ベル、大丈夫か?」
 其処に声をかけたのはラザーだった。
 彼がおざなりな応急処置の上から、装備を着込んでいるのが見えた。ベルはそれを一瞥し、
「お前も行くのか。その怪我で?」
 と、問うた。
 するとラザーは瞠目し、やがて苦笑を浮かべる。
「お前も似たようなものだろう?」
「お前たちのお陰でな」
「皮肉か? ……いや、悪かった。そうだな」
 ばつが悪そうに口籠って謝罪する様が可笑しくて、ベルは息を吐いて笑った。そうしてから、まだ笑えることに驚いた。
 それは根強く残る刷り込みの成果なのか、或いは、ベル自身が培ってきたものの結果なのかは、彼自身にさえ判然としなかった。真実を知った今でさえ、それはベルの根底に強く根付いている。
 だが、事此処に至っては、もうどうでもいいことに思えた。
「お前たち、行くぞ」
 アドラーの号令を聴き、ベルは漸く、診療台から降り立った。
 彼らの後に続きながら、セーフハウスを出る直前、ベルは肩越しに振り返る。
 開かれた金網の向こうに何があるか、ベルは知っていた。ベルと名付けられる前だったなら、きっと、一も二もなくそうしたであろうという行動も分かっていた。けれども、彼は今それを思い出すことも出来ず、ぼんやりとした空白が其処にあるだけだった。


***


 車窓には見知らぬ風景が広がっていた。
 ドゥーガへの道は、もしかすれば、嘗てのベルが辿ったことのある道かもしれないと思いはしたが、どの景色も見覚えがなく、目新しく感じた。その中になにか知るものを見つけようと躍起になっている自分自身に気づいて、彼は度々、眉間に深い皺を刻んで瞑目する。しかし、しばらくすれば、その繰り返しになるのであった。
 彼はそれを自覚し、努めて別のことを考えるべく、正面に向き直る。
 先行しているメイソンとウッズ、ラザーの車はもう見えなかった。
 ベルの隣に座っているのはアドラーだったが、車内に会話らしいものはなかった。もとより、アドラーは多弁な方ではない。無駄話も嫌っている。必然的に、彼との会話は気を紛らわす手段からは外れる。
 たとえ、なにか会話を探したところで、ろくなことになるとは思えない。今更、改まって訊ねるべきこともない。
 そうして結局、彼は側面に流れる風景に視線を戻すことになった。
 沈黙が続いた儘、景色だけが流れていく。
 すると突然、ぐるりと回った風景に驚いて、ベルは背を浮かして反対車線に視線を移した。
 ピックアップトラックが向かったのは、鄙びた景色の中、道端に一軒佇む小さな店だった。駐車場と思しき空きスペースに、ゆっくりと車が進入していく。
 ベルは訝しく思って眉を寄せる。一刻を争うこの局面で、アドラーが寄り道などするとは思わなかった。問うようにアドラーを見たが、彼はベルの方に一瞥もくれずに、
「お前は此処に居ろ」
 そう言い残して出ていく。
「便所か?」
 ベルは窓枠に頬杖を突いて、その背を眺めた。ベルの問いは、車の扉が締まる音にかき消される。
 仕方なしに、ベルは再びシートに身を沈めて、今度は静止した景色を眺め始めた。
 それらは全て、まるでブラウン管越しに世界を見ているようだった。
 何もかもがぼんやりとしている気がする。今まで鮮明だったもの全てが虚ろだ。それは今までにも、幾度も体験したことのある感覚であった。
 思い返してみれば、ベルが握る情報を引き出すために、アドラーやパークを筆頭に尋問を行われた後に味わう感覚が、今のそれなのだろう。
 其処まで考えて、ベルは深く嘆息した。
 感じたのは、強い憤りと、失望であった。しかし、そうしたものは、ぼんやりとした虚脱に呑まれて行く。頭の中で声がする。それはきっとよく知る声だ。
 ベルは深く瞑目して、それを頭から締め出した。
 今まで、どうやってそれからどうやって立ち直ったのだったか、考えてみる。
 或いはそれは身に馴染みすぎていて、感じなかっただけなのだろうか。
 どれくらいそうしていたかはわからないが、視界の外から、扉が開く音がして、ベルは我に返った。
「ベル」
 呼ばれて、彼は耳に馴染んだ声の方を振り返る。
 すると目の前に、紙のコップが差し出されていた。湯気の立つそれは確かめずとも、何であるか分かった。
「……」
「早く取れ」
 まじまじと紙コップを見つめて動かないベルに痺れを切らしたアドラーは、車に乗り込みながら催促する。
 促されて漸く、ベルは、おずおずとそれを受け取った。
 さほど大きくないカップの中、くるりと日に照らされて透ける、僅かに茶がかった色。
 惹かれるように口をつけると、強めの酸味が舌を刺した。
 慣れた珈琲の味とは随分違う。
 そう感じて、ベルは揺れる顔を上げた。
 いつの間にか車は動き出しており、隣を伺うとアドラーはいつ火を点けたのか、煙草を咥えて道路の先を見据えていた。
「……あんたが」
 車の耳障りな駆動音に負けない程度の、しかし、さして強くない声音を、アドラーはしっかりと拾ったらしかった。ほんの僅かに、アドラーがベルの方に顔を向ける。すぐに、視線は前に戻ってしまったが、ベルは構わず続けた。
「セーフハウスで珈琲をくれる時は、決まって頭がぼんやりしていた気がする」
 顔色が悪いと言い添えて、珈琲を差し出されたのが、もう随分と昔のように感じる。
 そういう機会は何度かあった。特に今までは、疑問に感じたりもしなかったことだった。
「好き勝手した詫びのつもりだったのか?」
 訊ねる語調が刺々しいものになってしまったのは、致し方ないことだった。
 しかし、紫煙を吐き出したアドラーは、眉一つ寄せない。
「そんなつもりはない」
「そうだろうな」
 吐き捨てて、ベルはコップの中身を呷った。窓を開け、空になったコップを投げ捨てる。
 アドラーが入れる珈琲は、もっと苦みが強く、酸味も少ない。きっと、それが彼の好みなのだろう。ベルはもう、それを憶えてしまった。
 幾分かすっきりした頭で、考えを巡らす。
 つい先ほどまで、アドラーについてずっと昔から知っているつもりだった。しかし、実は彼について知っていることなど殆どないのだ。
 当然のことだった。出会って、まだ本当に少ししか経っていないのだから。
 全ては刷り込みによって、知っているような気がしていただけだ。
 実際は、アドラーについて知っていることなど、珈琲の味の好みくらいだ。あとは、無駄を嫌う為人くらいか。
 彼は、殆ど自分について話さなかった。ベルも殆ど訊ねたりはしなかった。
(……いや、一つだけ)
 たった一つだけ、彼について興味本位で訊ねたものがある。
「……アドラー」
「何だ」
「あんたのその、顔の傷」
 彼の顔に刻まれた酷い裂傷についてだ。
 それについて彼は、ソビエトのスパイを追跡中に着地に失敗した、と言っていた。それが真実だと思って納得していた。
 あっさりと話したその言葉を疑わなかった。疑う理由も、必要も無かった。
 今とは、違って。
「あの話、嘘だろう?」
 確信があったわけではないが、抱いた疑問を言葉に乗せてみる。
 すると、前を見据えて居たアドラーは、漸くまともにベルの方へ視線を向ける。
「……知りたいか?」
「ははっ、いいや?」
 そうしてなんとも、彼らしい返答があった。ベルはそれを聴いて、失笑してしまう。
 きっと、嘘なのだろう。
 けれど。
「私が信じたら、きっと、それが真実だろう」
 賢い選択は出来なかった。
 彼らを許せないと思う。しかし、上手に憎むことも出来なかった。
 ほんの少し前まで、心から、友と仲間のためにと思っていたことを、それが嘘であっても、彼の中で真実、嘘に出来なかった。
 彼らは大きな嘘を、ベルに吐いた。
 だから、ベルも一つ、大きな嘘を返す。それでいいのだ。
 ベルは車窓を開け放して、大きく息を吸い、薄く笑った。


***


 倒れて頽れたベルは、彼らを見ていた。ぼんやりと彼らを見、やがて、大きく胸が上下したかと思うと、それきり、動かなくなった。
 彼を打ち棄て、其の儘歩き出したアドラーとウッズと違い、ラザーとメイソンは残された彼を見ていた。
 ラザーはベルに近寄り、膝をついて、開いたままの目をそっと閉じてやる。
 メイソンはそんな彼を慰めるように、肩を叩いた。
「コイツ、銃を持っていたのに、抵抗しなかった」
 ぽつり、とラザーが呟く。
 メイソンはベルの傍らに転がった銃を見、悼んでる様子のラザーを見比べて、少し迷ってから頷く。
「……そう、だな」
 ラザーは、拙く、しかし同意したメイソンを見上げた。
「ウッズは怒っていたぞ。アンタはそうじゃないのか?」
「怒ってるさ。これから大変なことになる」
 メイソンは先を行く彼らの背を見て、力なく首を振った。
「だがそれとは別に、ベルのことは……、少し、気の毒にも思う」
「意外だな」
 ベルが受けた境遇の話をアドラーとパークから最初に聞いたとき、メイソンが思い出したのは、あの薄暗い部屋だった。必要なことだからと言ってしまえば片がつくが、あの燃えるような怒りを、メイソンはまだ鮮明に思い出す事が出来る。
 必要悪と言って納得が出来ないこともある。特に、それが当事者であれば尚更だ。
「俺にも色々あるんだ」
 メイソンは苦々しく笑って、最後に倒れた儘の彼を見た。
「専門外だが、まるごと塗り替えるような洗脳が、長く続くとは思えない。ベルはいずれ敵に戻った」
「……そうかもな」
 それは慰めのつもりだった。
 しかしラザーは膝をついたまま、倒れ伏したベルを見つめていた。
「それでもベルには、命を救われた。借りが出来た儘になっちまった」
 その独白はメイソンの耳朶を打つ。
「実のところ、敵だと警戒してたし、用心もしてた。けど、俺達は、お前が嫌いじゃなかったよ」
 メイソンの目には、その姿が確かに、友を悼む姿に見えた。
 彼はもう一度、慰めるつもりで、その肩を叩いた。





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