その日、上天に輝いた日差しは緩やかだった。遮る雲は何処にもなく、そよぐ風はどことなく、ごく間近に迫った春の香りがする。
 この土地で、そんな日は珍しい。
 絵に描いたような穏やかな昼下がり、メイソンの自宅にある開けた裏庭で、幼子のきゃあ、と言う高い声が上がった。
「しっかり捕まってろよ!」
 ウッズは二歳になったばかりのメイソンの息子、デイヴィッドを肩車しながら、走っていた。デイヴィッドの楽しそうな高い声が響き渡る。
 親友と自身の子供が戯れている様というのは、なんとも現実感を欠いている。そう感じるのは、ごく先日までベルリンを拠点にして任務についてた所為に違いない。
 メイソンは彼らから少し離れて、庭先に備えたテーブルと椅子に身を落ち着け、それを眺めていた。
 笑いすぎて息を切らせたデイヴィッドは、ウッズの髪をひっぱり、
「おじたん、もっと!」
 と、舌足らずな言葉で催促する。
「お前飽きねえなあ!」
 そう言ってウッズが走り出す。
 彼らはかれこれ十分ほど、そんなやりとりを繰り返している。
 一度面白いことを見つけると、子供はそれを飽きるまで繰り返したがるということを、メイソンはこの時初めて学習した。しかも、その飽きるまでの間が、酷く遠いことも。
 そうして往々にして、大人の方が飽きが早いのだ。
 ウッズはさらに裏庭を二周したあたりで、肩に乗って大はしゃぎしているデイヴィッドに問いかける。
「まだやるのかー?」
「まーだ!」
「……おい、メイソン」
 流石のウッズも辟易した様子で、メイソンの方を見た。戦場で敵を圧倒するウッズも、子供の前では形無しのようだ。
 メイソンは苦笑を浮かべて、すぐ傍のパッケージに入った子供用の菓子を持ち上げる。
「多分、菓子で釣ったらいいんじゃないか?」
「よぉし、デイヴ! 美味い菓子があるんだってよ! 休憩だ休憩!」
「やぁー!!」
「やじゃねえよ!」
 むずがる子供を肩から下ろすと、両手で抱きかかえ、ウッズはメイソンの対面に腰を下ろした。
 膝の上に座らされたデイヴィッドは精一杯の抵抗として、手足をじたばたと動かしていたが、メイソンから菓子を受け取ったウッズが、それを開けて口に押しつけると、すぐに大人しくなった。
 その代わり、幼児用のチョコバーであっという間に、デイヴィッドの口の周りは真っ黒になる。
「ガキの相手ってのは、案外体力がいるなあ」
 そんなデイヴィッドの様子を覗き込みながら、ウッズは呆れたように呟いた。
 戦場を駆け回る機会の多い彼は、息こそ切らしていないものの、辟易したとばかりに大仰に肩を竦める。
「バテたのか? ウッズおじたん」
「うるせえぞ」
 デイヴィッドの口の周りを拭ってやりながら、ウッズはメイソンを睨んだ。デヴィッドはされるが儘だ。
「知ってたが、お前は面倒見がいいな」
「まあな。コイツはお前に似てなくて可愛い。オヤジに似なくて良かったなあ。なー、デイヴ」
 顔を覗き込まれたデイヴィッドは、ウッズに何を言われているかまでは分からなかったらしい。きょとんとしてウッズを見上げ、チョコバーを握りしめた儘、こくりと頷く。
「……? あい?」
「だはははは!」
「お前な……」
 メイソンは憮然と頬杖をついて、ウッズを睨んだ。
「デイヴは俺似だろう……?」
「お前にこんな愛嬌ねえよ。図々しい」
 愛嬌、と呟いて、メイソンは項垂れた。
 それを見て、ウッズは一粲する。
 デイヴィッドは不思議そうに顔を上げてから大人達を見渡し、何を思ったか、咥えていたチョコバーをウッズに向けて差し出した。ウッズはそれに気がつくと、幼子の差し出したそれを躊躇無く一口囓る。
 そうして彼はデイヴィッドを撫でると、幼子は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 メイソンはその風景に、目を細める。
 家族、或いは、父の姿として思い浮かぶものに、メイソンはいい思い出がない。結局、今に至るまで、彼らとは仲違いしたままだ。
 亀裂をそのままに軍に入り、そのうち生きるだけで精一杯というような生活が続いた。やがて自身で家庭を持った今も、幸せな家族という姿を余り上手く思い描けない。よほど、銃を持って争いの中を行くほうが、現実味があった。そうして彼が家に帰り着き、努めて親、或いは夫らしく振る舞ったところで、いつでも空々しい絵空事のようだ。
 ウッズと笑い合っているデイヴィッドの姿を見て、或いはこういうものか、と他人事のように思う。
「お前のほうが、余程父親らしいな」
「はあ?」
 メイソンが思わず呟いた言葉を拾って、ウッズは顔を上げた。咄嗟に顰めた顔は、メイソンの表情をみて、すぐに怪訝そうなものに取って代わる。
「……どうした?」
 発した彼の声音は酷く気遣わしげで、メイソンは思わず、苦笑を浮かべた。
 ウッズは普段酷く豪快だが、人の感情の機微に聡い。感情の起伏が激しい分素直で、人を思いやるのも上手いのだ。メイソンはそういったものが、彼に比べて上手くなかった。
 ほんの僅かに逡巡し、ウッズの膝の上で再び残った菓子を咥えている息子に目を向ける。
「正直……、どう息子と接していいかわからない」
 それは切実な吐露であった。
「デイヴィッドには、強くなって貰いたい。俺がいなくとも、生きていけるくらいに。父親として、その術くらいは、教えてやりたい。だが……」
 メイソンは、そこで言葉を切ると、己の手を見つめた。
 傷の目立つ、無骨な掌。その手が血に塗れることは、決して珍しい事ではない。
 当然、子供は穢れを知らない。
 躊躇うことなく伸ばされる小さな手に応える時、どうしても、その手が血に塗れていることを思い出してしまう。
「俺は親として相応しいか? この手は、綺麗とはとても言えない」
「後悔してんのか?」
「いいや」
 何を、と問うまでもなかった。ウッズの問いにメイソンは即座に首を振った。どれだけ悲惨でも、どれほど残酷でも、誇りと共に生きてきた。
 友のため、国のため、彼らのように日陰を生きるものはどうしても必要になる。
 いつか割り切ったと思ったことが、重くのしかかる時もある。
 特に、無垢な幼子を目の前にするときは。
「だけど、俺達がすることは、必要だが決して、正しいものばかりでもないだろう」
「お前、今回のこと引き摺ってるな?まあ、確かに……胸くそ悪かったけどな」
 ウッズはメイソンを見据え、膝の上のデイヴィッドを抱え直した。
「相応しいかどうかなんて、関係あるか? ウダウダ悩んだって、結局はもう、お前はコイツの親だろうが。お前が迷うのは、デイヴィッドがそれだけ大事だからだろ。それで、充分だと思うがな」
 ウッズがデイヴィッドを覗き込む。
 デイヴィッドは、菓子の残りを小さな口の中に詰め込んだばかりで、口を両手で抑えてもごもごと口を動かしている。大人の難しい会話など、全く耳に入っていないようだ。
 そのあどけなさに、思わず、メイソンとウッズは頬を緩めた。
「……お前、デイヴが可愛くて可愛くてしょうがないんだろ」
 ウッズは横目でメイソンを伺い、揶揄うように笑う。
 メイソンは虚を突かれて瞬き、やがて恥じるように、顔を伏せた。
「……わかるか?」
「俺がコイツを肩車した時、あれだけあたふたと心配そうに見てりゃあ、誰でも分かる」
 メイソンは思わず、テーブルの上に崩れ落ちる。これは一生揶揄われそうだった。
 ウッズの指摘通り、触れることさえ躊躇いながらも、まるで幸福の象徴のような無垢な子供を、大事にしなければと言う思いはある。
 今までメイソンは、一所に留まる生き方というものを殆どしたことがない。衝動的に、思うまま生きてきた。
 願いの儘にあり続けた結果、得たものもあれば、それで失ったものもある。彼の父母や姉妹、それは失った最たるものだった。
 そして今彼は父になり、省みることのなかったそれは、残酷なことだったのでないかという事に、漸く気がつき始めた。
 新しく家族になった彼らにまで、同じようにしてはいけないのではないか、とも。
 メイソンは顔を上げられぬ儘、胸に秘めていた言葉を告げる。
「なあ、フランク。俺が、軍を辞めるって言ったら、どうする?」
「お前、馬鹿か?」
 その答えは、一切の間を置かず、刺すような怒気で返った。
 メイソンは思わず、身を固くする。
「いいか、アレックス。何処にいようが、何をしてようが、お前は一生俺の相棒だ。好きにすりゃいい」
 次にウッズの継いだ言葉は、叱るようであり、諭すようであった。そして、明快だった。迷いなく言い切られて、メイソンは弾かれたように顔を上げた。
 メイソンは今まで、家族という言葉を思い浮かべるとき、血の繋がりよりも、目の前のウッズの姿が浮かんだ。軍に入ってから彼はずっと、メイソンの戦友で、兄で、家族だった。
 本当の家族と縁遠くとも、ウッズが居れば気にすることさえ無かったように思う。
 そうして彼はどんなときも、メイソンの背を押し続けてくれる。
 メイソンは顔を隠すように手を上げて、目頭を押さえた。顔を背けようとして、そこに、幼い声が上がる。
「だでぃ、だでぃー!」
 それまでウッズの膝で大人しくしていたデイヴィッドが、身を捩って、メイソンの方へと手を伸べる。
 ウッズはそれを見て、テーブルの上を渡して彼の息子を差し出した。
「ご指名だぞ、パパ」
 メイソンは差し伸べられる息子の手に、矢張りほんの僅かに躊躇ってから、応えて抱え上げると、デイヴィッドは幼いなりに何か感じるところがあったのか、まるで、慰めるようにメイソンの頭を撫でた。
 撫で付けた前髪を躊躇無く、幼子の手がかき回していく。小さなその手は、メイソンの懊悩など、歯牙にも掛けない。
 メイソンは暫し、呆気に取られて硬直していたが、やがて息を吐くように笑うと、ぎこちなくデイヴィッドを抱き寄せる。許される限りの力で恐る恐る抱きしめれば、恐ろしいほどの柔く脆い感触と、小さな身体からは、甘い匂いがした。
 デイヴィッドが嬉しそうに笑うのが耳元で聞こえ、メイソンはきつく、目蓋を閉じた。
「なんだ、立派に親子じゃねえか」
 息子を抱き寄せた視界の外から、心なしか嬉しそうなウッズの声が聞こえた。
 応えるつもりでメイソンは口を開こうと思ったが、喉を震わせたのは、涙混じりの掠れた笑い声だけだった。





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