「それは、やめておいた方がいいわ」
 パークは柳眉を寄せて首を振ったが、アドラーは映像を再生してから、投与薬を顎で示した。
「残りの心配なら要らない」
「薬の残量の問題じゃないの。ベルのことよ」
 彼女がやや苛立った声で、処置台の上に横たわった彼を指差す。
「最近は目覚めるまでの時間が長くなってる。これ以上の負荷は危険だわ。限度を考えて頂戴」
「必要なことだ」
「ええ、そうでしょうね。でも、その必要なことを引き出す前に、彼が駄目になっても良いの?」
 こんなやり取りは今日が初めてではない。日を追う毎に、彼女と意見の溝は広がるばかりだった。
「それでは結局、私達の目的は達成されない。ねえ、何をそんなに焦っているの?」
「今現在、猶予があるように思うのなら、随分と楽天家だ」
「挑発するのはやめて。何と言おうとそんなリスク、認められないわ」
「パーク。誰の麾下にいるか忘れたわけではないだろう?」
「ええ、アドラー。貴方こそ、この件に関しては私のほうが専門であることを、忘れていないことを願うわ」
 アドラーとパークは暫し睨み合い、さして広くない室内に、緊迫した空気が満ちる。
 先に目を逸らしたのは彼女のほうだった。細い指を額に当てて、肺を空にするかのような長嘆を吐く。
「……貴方が、この任務に必死なことも分かっているつもりよ。でも、それは私だって同じ」
 腕を組んで、彼女は横たわって動かないベルを見据えた。
「それにペルセウスの一派の……ベルを疎む気持ちも理解出来る」
「……」
 疎む、と聞いて、アドラーはほんの僅か、眉を動かした。ベルを見ていた彼女は、それに気が付かなかった。
「けれど彼はペルセウスに最も近い貴重な情報源だからこそ、此処で無為に彼を失えないの。貴方もそれをよくわかっているはずでしょう?」
 パークはアドラーへ視線を戻すと、決して退かないとばかりに睨み上げる。
 アドラーはその視線を受けて、横たわったベルへと視線を動かした。彼は死んだように動かない。先ほどは、虚ろな目が天井を仰いでいたが、今は意識を無くしているらしい。
 沈黙が落ちる。
「……アドラー?」
「分かった。当面は現状維持で構わない」
 話は終わったとばかりに、彼はブラウン管に浮かんだ映像を消した。アドラーは煙草を咥えると、足早にその部屋から出ていく。
 パークはその背を見送りながら、もう一度、嘆息を吐いた。
 それは、鉄扉が閉じる音にかき消されてしまった。


***


「アドラー」
 名を呼ぶ声音は、親しげな者へ向けるそれだ。
 何も知らず、憶えていないベルは、そうして、アドラーを親しい者と見做す。
「アドラー? 聞こえてるか?」
 呆れるほどの警戒心のなさで、ベルはアドラーの隣に腰を下ろして、顔を覗き込んだ。
 剰え、彼のひらひらと眼前で手を振って見せるので、アドラーはそれを鬱陶しげに払った。それを受けて、ベルは頬杖をついて、苦笑を浮かべる。
「あんたが呆けているなんて珍しい。寝不足か?」
「昼過ぎまで暢気に寝ているお前と比べれば、誰だってそうだろう」
「そう怒るなよ。そんなに長く寝るつもりはなかったんだが……。珈琲でも入れるか?」
 ベルはテーブルの上に放置された、空になったアドラーのマグカップを取り上げた。しかし、アドラーは常にない早さでベルの腕を抑える。
「遠慮しておこう」
「おい、露骨に嫌そうな顔をするな。これでも多少、ましになった」
「……」
 ベルが入れる珈琲と呼ぶものの味は、此処にいる者、全員が知るところだった。
 アドラーが懐疑的な眼差しを送ると、サングラス越しであろうと、それを理解したのであろうベルは眉を寄せる。
「信じていないな?シムスに習った。本当だ」
 不服そうな顔の儘、ベルは少し離れた場所でラザーとポーカーに興じているシムスの方へ顔を向けた。
「そうだろう、シムス?」
 そのやりとりを聴いていたのであろうシムスは、顔を上げてベルを見ると、彼に向けて力強く頷いて見せる。
「ああ。前よりは、よく出来た泥水になった」
「わっはははは!!」
 その返答に、ラザーが遠慮の無い哄笑を上げる。
 その賑やかさに、別の場所で、テープの録音を聴いていたのであろうパークも顔を上げた。
「アドラー。折角だし入れて貰ったら?目が覚めるかも知れないわよ」
「パークも要るか?」
「いいえ。気持ちだけ頂くわ」
 ベルの勧めに、彼女はやんわりと、しかしきっぱりと断って、再び机に向かってしまった。強かで、世渡りの上手い彼女らしい対応だった。
「パークの言う通り、ベルの珈琲は目が覚めるぞ。それは間違いない」
「じゃあ、お前も頼んだらどうだ?」
「いや、それはいい」
 ラザーが肩を震わせながら提案し、真顔になって拒否したシムスとのやりとりを聴いて、ベルは憮然として二人を睨んだ。
「随分な言いようだな」
「腕を上げてから言えよ。そしたらみんな、諸手を挙げてお前に頼むだろうよ」
 にべも無い返答と共に釘を刺して、シムスは手持ちのカードを切った。ラザーも異を唱える様子もなく、半笑いの儘何度も頷いている。
 ベルは口をへの字に曲げてから、最後にアドラーに視線を戻した。
 アドラーは、彼が妙な気を起こす前にと、その手からマグカップを取り上げる。
「お前には早いようだな?」
「……多数決によると、そのようだ」
 不承不承頷いたベルは、テーブルの書類を薙ぎ倒して突っ伏した。
「珈琲は任せた」
 そうして、伏せた顔の下から呻くように願い出る。
「……俺に?」
「私が入れていいならそうするが」
「……ふむ」
「ドク、こっちにも二つ頼む」
 まるで店で注文するような気安さで、シムスが声を上げた。アドラーはそちらを一瞥して睨んだが、彼は目すら合わせない。
 嫌な予感がしてパークのほうを振り返ると、しかと目が合った。彼女は美しく微笑むと、
「いただくわ」
 と、何も申し出ていないのにも関わらず、注文を付けてくる。
 事の元凶はいつの間にやら顔を上げ、なぎ倒した書類を直しながら、呑気に嘯く。
「アドラーがカフェを開いたら繁盛するだろうな。転職するか?」
「生憎と、これが天職だ」
 その手元の書類を取り上げてテーブルの端に避けると、アドラーは新しい煙草に火を付けて咥え、傍に出しっぱなしになっていたベル用のマグカップを取り上げる。
 アドラーの手中に収まったマグカップを見て、ベルが頬杖を付き、心底嬉しそうに無防備な笑みを浮かべた。
「頼んだ」
 肺に溜まった煙を吐き出し、一つ頷いてから、彼はその笑みから視線を逸らした。
 ミッションボードの裏は、セーフハウスで生活するための日用品置き場になっている。アドラーはミッションボードの裏へ回り込み、マグカップを置いてから、棚からコーヒーミルと備蓄してある豆を取り出した。
 セーフハウスは、お世辞にも生活するに充分な設備があるとは言えない場所だった。本当に、此処で作れるのは珈琲くらいなものだ。しかし、逆に言えばそれさえあれば、他は外から調達すれば良いとも言える。尤も、日々の買い出しの役目を果たすシムスは、毎回大変そうにしているが。
 コーヒーミルに豆を入れ、レバーを回しながら、アドラーは顔を上げる。
 すると、丁度に置いたモニターの間から、アドラーが処理していた書類に目を通しているベルの姿が見えた。ベルに秘匿すべき情報は全て、パークの管理になっている。表に出ているのは全て、統制済みの書類ばかりだ。彼が読んでも問題ない。
 銃弾の飛び交う中を征く派手な任務内容とは裏腹に、彼らの業務は、実はそうした書類や情報の処理といった地道なものが主だ。膨大な情報量の中から必要な情報を取り出す作業は、長年の勘や経験がものを言う。しかし、それには大変な労力が必要だった。
 彼らの努力の結晶とも言うべき書類を、首を傾げながら捲っているベルの横顔を見ていると、今朝方、パークが言った言葉が蘇る。
『ねえ、何をそんなに焦っているの?』
 彼女の言葉は的を射ている。まさに、アドラーは焦っているのだろう。
 ベルと名付けた彼は、存在そのもの誤算だったのかも知れないと、彼は時折思う。
 ベルはいつだって、彼らに友好的な存在だった。彼はアドラーが求めた以上の技術を持ち、当初は何もかもが上手くいっていると満足していた。ところが、それが日を追う毎、名を呼ばれる度、言いようのない違和感を覚えるようになった。それがいつからか、アドラー自身にさえ、判然としない。
 敢えて言葉を探し、それが焦燥に似ていると気づいた時には、もう遅かったように思う。
 元々敵であったベルを疎む気持ちは理解出来る、とパークは言った。
 しかし、それは全くの誤りであった。そして、疎んで居ないことこそが問題なのだと、彼女は知る由もない。
 ペルセウスの排除という目的以外には、何もかも重要ではない。どのような手段でも使うべきであるし、どのような感情も排してのける自信もあった。それが過信ではない。そのはずだ。それならば何故、彼が親しげに微笑む度に、それが驚異だと思うのだろう。
 彼はいつの間にか手を止めて、その横顔を見ていた。
 アドラーの視線に気づいて、ベルが書類から顔を上げる。彼の方を向き、目を合わせ、不思議そうに瞬いてから、笑みを浮かべて首を傾ける。
 ベルの親しげな様は、まるで毒のようだ。おそらく、彼にとっては。
 それは一種の防衛本能のようなもので、それを排するべきと頭の中で警告を発する。どこまで行っても、所詮、ベルは敵だ。いつか、その存在ごと排除しなければならなくなる日が、必ずやってくる。
 その時になって、決意が鈍る前に。
 耳の奥で早く、と急かす自らの声を消すように、アドラーは再び、コーヒーミルを回した。そして豆の削れる音に、あっけなく紛れた。


***


 頬を撫でる空気は冷たい。
 潮騒の音が響くその場所で、アドラーは崖下目掛けて、火の付いた煙草を投げ捨てる。
 思い返せば、ベルとの間には、嘘ばかりが横たわっていた。
 けれども、それも此処で終わる。
 景色の美しい場所を選び、最後くらいは全て真実で終わらせたいと思ったのは、アドラーに為せる最大の誠意であった。
「お前には、理解して貰いたい。……これは決して、個人的な理由によるものではないと」
 それは決して避けられないことだ。
 憎悪でもなく、憤怒でもなく、ただ、どうしようもなく必要なことなのだ。
 そうして、告げた言葉が真実であることの痛みには、アドラーだけが堪えれば良い。
 銃を抜くと、ベルもまた、合わせ鏡のように銃を抜いた。
 どうして此処に来るまでにそれを取り上げておかなかったのかと、頭の隅で冷静な自身の声がした。しかしその声は、対面の彼が浮かべた表情を目にして、霧散する。
 ベルは笑っていた。
 呆れたものを見るような、或いは諦めのような、困ったような笑みを浮かべていた。凡そ、この場面で浮かべるには不似合いと言える、そんな表情を。
 何故と思うと同時に、銃声が響いた。
 そしてアドラーは、ベルと出会ってからずっと、頭の中で響いていた警鐘は正しかったのだと知る。
 もっと早くに、彼を壊していたらとさえ思うほどに。
『アドラー』
 耳の中に残る、その親しげに彼の名を呼ぶ声。彼がアドラーに向けて、どんなふうに笑っていたか。
 それはベルという存在ごと、蝕む毒のように、生涯残る傷のように、毎夜訪れる悪夢のように、その瞬間に、危惧した通り彼の中にしかと焼き付く。
 それは永劫、鮮やかに胸を焦がす、解けない呪いになるだろう。






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