ベルはセーフハウスの中央に据えられたテーブルに頬杖をついて、深く深く、嘆息を零した。
「憂鬱そうだな?」
 それを耳聡く聞きつけたラザーが、後方から声を掛ける。
 ベルは振り返らずに項垂れて、テーブルに放置されていたキーホルダーを手にとってから、ぞんざいに声のした方へ放る。
 ちゃり、と金属が高い音を立てたが、落下音ではなかった。
 肩越しに振り返れば、ラザーは手中にそれを収めており、彼の隣に居たシムスがそれを覗き込んでいる。
「バビー?」
「はは!お前への土産だって、ウッズが持ってきた奴じゃないか」
「へえ……?」
 ラザーはハンバーガーチェーン店のマスコットを目の前にかざし、しげしげと眺めた。
「それで、これがどうかしたのか?」
 シムスに問われ、ベルは曲げていた背を伸ばすと彼等に向き直って、その長い手足を組んだ。
「此処に戻ってくる道中、ずっと、ウッズにハンバーガーの話をされた」
「はあ?」
「バーガータウンのハンバーガーの話か、ハドソンへの文句……いや、悪口か。稀に赤軍への悪態。その三つだ。アドラーはだんまりだし、パークは距離を取っているし、メイソンは聞いているのか聞いていないのか分からない。それで、私がずっとそれに付き合う羽目になった」
 うんざりした様子で頭を肩に向けて倒したベルは、任務に当たる時よりも疲弊している様子でさえあった。
 シムスがラザーからキーホルダーを取り上げると、まだテーブルで作成中のミッションボードの資料へ加え直した。間違いなく任務には関係が無いが、それを持ち込んだウッズが此処に出入りする手前、破棄するわけにもいかない。
 雑然としたテーブルの上、すぐ傍には、別の資料が広がっている。次にヤマンタウに潜入するメイソンとウッズのために、アドラーがハドソンが用意した地形及び軍事情報などだ。
 傍にこそ居たが、アドラーとハドソンは、ベルのぼやきになど耳を貸すはずもない。
 ハドソンは、CIA本部と連絡を取り合っているのか、受話器をもってモニターの傍をうろついているし、アドラーはベルの斜め前で煙草をふかしながら、資料から顔を上げる様子さえない。
 シムスはそんなアドラーを一瞥してから、ベルの隣に腰を下ろして、彼を覗き込む。
「ほっときゃ良かったろ。律儀に付き合ってやったのか?」 
「親切だな、ベル?」
 シムスと、ラザーをそれぞれ見比べ、彼等の面白がる気配を察して、ベルは只管に憮然とする。今度は組んだ足に頬杖をついた。
「揶揄うな。彼の場合、無視を決めてもそれはそれで面倒なことになるだろう」
「良い洞察力だ。スパイ向きだぞ」
 宥めるようにシムスが肩を叩くが、ベルの表情は晴れない。
「……おかげで、ハンバーガーが無性に食べたくなった」
 如何にも悩ましいと言った風に零す言葉は、裏腹に、他愛無いものだった。最も、当人にとっては深刻な問題なのかもしれなかったが。
「お前、そんな理由で項垂れてたのか?」
 揶揄を受け止めて、ベルは鬱陶しげに顔を背ける。それが答えだった。
 ラザーは周囲を見渡して、ベルの悩みの原因となった人物を探す。彼らはベルと共に此処に帰ってきたはずだが、今は姿が見えない。
「そのウッズとメイソンは何処に行ったんだ? まだ任務は始まってない筈だろ」
 グリーンライトの核について説明をされた時には、ウッズもメイソンも傍にいたのだが、ラザーが戻ってきた際には姿を消していた。
「なんでも、作戦の前に大事な用があるんだとよ。深刻ぶって、メイソンを引き摺って出て行ったぜ」
「用? 何の?」
「さあな」
 肩を竦めたシムスを一瞥し、ベルは肩越しに振り向いて、テーブルの上に広がった資料のうち、ヤマンタウの地形を記したものを一枚取り上げた。
 ヤマンタウに潜入するにあたり、敵国に潜むこちら側のスパイの手を借りる手筈になっているが、おそらく、ハドソンは今その調整を行っているに違いなかった。
 彼の地は外界とは隔絶した場所にあり、入るにも出るにも、準備は入念に行われる。
 そのため、いくらか時間はあるが、潜入する当人達の準備も勿論必要だ。
「作戦前に出て行くから、余程大事な用だとは思うが……、ろくな用ではない気がするのは、私だけなのか?」
  ベルはぽつりと呟いた。その言葉尻は小さく、 不安そうだ。
 大事な用とやらの話をしていた時のウッズは、キーホルダーを取り出して、ソ連の追跡装置の可能性があると言った時と、同じ顔をしていたからだ。
 するとそれを聞いて、今まで徹底してベル達のやりとりを無視していたアドラーが、本当に微かに笑みを刷いた。
 地図を見ていた視界の端でそれを捉えたベルが、顔を上げる。
「アドラー?」
「なんだ」
「ウッズの用事に心当たりがあるのか?」
「いいや」
 アドラーはベルの問いに視線一つ寄越さないが、しかし、 
「だが、良い勘をしている」
 と、評した。
 その答えに、不可解そうにベルは眉を寄せた。
 その時、セーフハウスの鉄扉が派手な音を立てて開いた。
「戻ったぞ!」
 アドラーを除く誰もがそちらを注視した。
 メイソンを引き連れたウッズは、両手一杯に紙袋を抱えている。
 ウッズは大股で彼等が集うテーブルまでやってくると、上に広げた資料など気にする様子もなく、その紙袋を下ろしてしまう。
「おい」
 流石にアドラーが抗議の声を上げるが、当然ウッズは気にした様子などなく、ごそごそと紙袋を漁ると、取り出したそれをアドラーに押し付けた。
「ごちゃごちゃとした作業の前に、腹ごしらえが先だ」
 誰もがアドラーの手の中のそれを見、納得したように目配せしあう。
 ハンバーガーだ。
 それも多分、ウッズお気に入りのチーズバーガー。
「何の騒ぎ?」
 其処で、暗室で写真の現像作業をしていたパークまでもが、顔を出した。
「パーク、お前も手を止めてこっちに来い」
「何なの?」
「ちょっと早い昼飯だな」
 メイソンも、近づいてきた彼女に飲み物とハンバーガーを手渡す。
 ラザーとシムスもそれぞれ勝手に袋を漁って、包み紙を剥いで早速頬張った。
「念願の物の到着だ。よかったな、ベル」
「……ああ」
 そうしてシムスにハンバーガーを手渡されたベルは、視線をずらして、アドラーとハドソンを覗う。
 どちらも酷い渋面を浮かべている。それどころではないと、どちらも大きく顔に書いてあるようだ。
 思わず吹き出しそうになって、ベルは顔を背けた。
「おい、ウッズ。これはお前の奢りか?」
「はあ? ハドソンに請求するに決まってンだろうが」
「ねえ、ポテトある?」
「ああ、こっちに」
「シムス、それチーズバーガーか?」
「全部、チーズバーガーだろ。多分」
「大当たり。分かってるな、シムス」
「だよなあ……」
「文句があるなら、食わなくていいぞ」
 そうして、テーブルの周辺が一層賑やかになる。
「……おい! お前達、うるさいぞ!」
 そして、そのすぐ傍で電話の最中だったハドソンがついに声を荒らげた。もちろん、その文句を聞き入れるほど殊勝な者ばかりな筈がない。特に、ウッズは。
 そんな風に、凡そ世界の危機とはかけ離れた陽気な光景に、ベルはハンバーガー片手に思わず声を上げて笑った。


****


 瞬いては消える。それは幸福だった頃の夢だった。
 何一つ欠けることなく、人生は輝かしく、完璧に思えた。
 その全てが作りものであったと、まだ知らなかった頃の話だ。
 蓋を開けてみれば粗末な張りぼてと気づけるものを、その中心に立って居る頃には、その虚構が世界の全てと信じていた。
 おかしな話かもしれないが、ベルにはあの一瞬の、瞬くような短い夢が懐かしく思える時がある。あれだけ怒り、憎いと思っていた全てが。
 ありもしなかった過去や、或いは、あの粗末な隠れ家で実際にあった光景が、白昼夢のように現れるときは、特にそうだった。
 丁度、今のように。
 それらを追う術も持たぬ儘に、ベルは短く息を吐いてから、何度か瞬いた。
 そうすれば、其処はもう、彼が生きる現実だった。
 薄暗く、雑然としていて、血生臭い。
 血塗れの手を気にした風もなく、ベルは立ち上がる。
 無感情に見下ろした先、彼の足下に転がっていたのは、カシームと呼ばれた男だった。
 彼らを裏切り、怯懦故に西側に情報を売った彼は、その臆病さ故にこうして始末されることになる。ベルもよく知る顔の筈だったが、今ひとつ実感に欠けた。それは暗がりの中でもそれとわかるほど、生気のない白すぎる顔色の所為かもしれなかった。
「おい、聞こえていないのか?」
 そこでようやく、後方からかかる声に気がついて、ベルは振り返る。
 戸口には闇そのものが立ち上がったような、黒尽くめの人影が立っていた。
「……スティッチ」
 ベルが名を呼んだその人物の顔は、深く被ったフードと逆光で酷く覗い難い。
 だが元より、両目以外の部位の殆どをマスクで覆っているスティッチの顔など、味方でさえ、見たことがある者のほうが少ない。勿論、ベルもその素顔など知らなかった。
 彼がいつから其処にいたのかは定かではない。ただ、思い返せば何度か名を呼ばれた気がする。
 本当の名前は未だに、彼の中では他人のもののようだ。ベルと呼ばれたほうがずっと、身に馴染んでいる気さえするほどに。
 古巣と呼んで然るべき場所に帰ってから、数週間が経った。だが、ベルは変わらず、ベルの儘だ。
 そうして、齟齬を抱えた儘、今に至る。
 ただ、その事実は、彼以外は誰も知らない。
 西側で見たあの短い夢。その微睡みの只中にいると知られれば、足下に転がっているカシームと同じ憂き目に遭うことは明白だった。
 彼が属する世界は、最初からそういうものだった。そうして、ベルは口を閉ざし、平静に振る舞うことを選んだ。
 そんなベルの韜晦を知ってか知らずか、スティッチは恰も嵐が去った後のような、荒れ果てた部屋を一瞥した。
「随分、時間がかかったな」
 皮肉、或いは批判か。いずれにせよ良い意味合いの言葉とは取れず、ベルは思わず柳眉を逆立てる。
「何が言いたい?」
「そう目くじらを立てるな。目的のものは見つかったのか?」
 スティッチのそれはさして興味を抱いている風でもなく、ただ義務であるかのような問いだった。
 ベルはほんの僅かに躊躇し、しかし、隠す必要もないことに気がついて、肩を竦める。
「いいや」
 そうして、ベルは握った儘だった拳を開いた。
 其処には血に塗れてはいるが、辛うじて白と水色と判別可能な紙屑が握られている。ベルは握りつぶしていたそれを、丁寧に開いていく。
 それは煙草の空き箱だった。
 見慣れた銘柄に視線を落とし、ベルは目を細める。
「だが、此処に居たことは、間違いない」
 手中に目を落とし、独りごちる。
「まだ近くにいるはずだ。焦らなくとも、そのうち出会うだろう。あちらも、私が欲しいはずだ。……私の、命が」
 暗がりに炯々と光る薄氷のようなベルの瞳は、正気と狂気の狭間を揺蕩う。復讐か、怨嗟か、はたまた別のものか。
 それを見て取ったスティッチの目には、微かな憐憫に似た色が浮かぶ。しかし、瞬き一つでそれを消し去ると、
「確信があるのか?」
 と、問うた。そこには、最早憐憫と言うよりは、呆れ果てた響きがあった。
「彼らならそうする。私なら、そうするのだから」
 答えるそれは歌うような、落とすような響きだった。そして予言あり、宣託だった。
 ベルの知る彼らなら、やられた儘ではいないだろう。決して諦めることなく、必ず失った分の仕返しをしにくる。ベルは、それをよく知っていた。
 スティッチは微かに首を振ってから、短く嘆息をこぼした。ややあって、顔をあげる。
「お前が……、殺し損ねた奴らの名は、何と言った?」
 ベルはスティッチの方をひたと見据える。ガラス玉のような目が、喜色を浮かべた。
「シムス。ローレンス・シムスだ。もう一人は、ジェイソン・ハドソン」
 リン、と高い音が、名を呼ぶ音に紛れる。その音は耳の奥、或いはどこか遠くから、記憶と共にやってくる。
 ベルは懸命に瞬いた。瞼の裏に映る幻を追い払って、一つ息を吐いてから、告げる。
「見つけたら、私に残しておいてくれ」
「約束はできん」
「彼らは私のものだ。もし先に手を出せば、お前も殺す」
 ドゥーガの作戦後、彼等への執着は強くなった。それは、ベル自身にも手に取るように分かった。
 彼の地でベルは、嘗て仲間と信じた者達を、その手で悉くを鏖殺した。
 シムスとハドソンは、あの戦線には居なかった。それ故、ベルは彼らを見つけ出し、必ず、その手で殺さなければならない。
 それを奪うというのならば、誰であろうと、容赦はしない。
 胸中にある衝動、義務感と責任感。それは、歪んだ情の現れでもある。その自覚を持ちながらも、決して譲ることが出来ぬ一線であった。
 そしてベルに露骨な殺意を向けられたスティッチは、まるで頑是ない子供を見るような目で睥睨し、一つ、頷いた。
「……覚えておこう。情報によると、此処でも火消しに躍起になっている連中がいるらしい。おそらくCIAだ」
「火消し? 無駄なことを。あの国は今や世界の敵だ。まさかこれだけの証拠が揃っていながら、潔白の証明が出来るとでも思っているのか」
「出来ると思っているからこそだろう。お前の探している、旧友かもしれないぞ」
「……旧友、か」
 皮肉とも揶揄とも取れる呼称を反芻し、口元には仄暗い笑みが灯った。まるで夢見るように、その視線が宙を漂う。
「奴らに、あの国が燃える様を見せてやるのもいいな」
 叶うなら、あの国が燃える様を見てみたい。彼等が愛した、あの国が。きっとその様は、なによりも美しく見えるだろう。
 一人うっそりと笑ったベルを一瞥し、
「気狂いが」
 スティッチは何度目かの嘆息に、悪態を混ぜる。
「好きにしろ。お前が領分さえ逸脱しなければ、誰も文句はあるまい。さっさと引き上げて報告に来い。あの方が、話したいことがあるそうだ」
 そう言い残すと、彼は戸口から身体を離して踵を返す。
 ベルはそれを横目で、無感情にそれを見送った。
 昔の自分を上手く描けない儘のベルは、周囲からも酷く危うく思えることだろう。実際のところ、従順に振る舞っているが、ベルが此処に居る理由は一つしか無い。
 彼らが愛したものを全て、消すためだ。
 嘗ても今も、彼等はどうしようもなく、宿敵であった。
 火と水のように、何処まで行っても対局に在り、決して交わらない。
 しかし、ベルは水の中で燃え、火の中で溺れるように、彼等と過ごした。
 そうして、無残な灰の中に残った僅かな情は今や歪んで見る影もない。しかし、その中に、確かにベルという存在がある。 ゆらゆらと揺れながら、彼は残りの灰が綺麗に消え去る日を待っていた。
 けれども、待てども待てども其の時は訪れず、その日々の中に唐突に、リン、と高い鈴の音がする。
 或いは、底抜けに陽気に笑う男の声。
 その傍で、どこか複雑そうな面持ちでベルを見ていた目線。
 宥めるように背を叩く分厚い掌。
 謎めいて、しかし穏やかな笑みを帯びる目元。
 痛烈な、しかし愛嬌のある皮肉。
 そして、血溜まりの中、低く謳う声。
 正気と狂気の合間に響くそれらの音は、簡単に、彼をベルという存在の檻に押し込めてしまう。
 全てその手で無くしたと知っているにも関わらず、彼等のことが、たまらなく恋しい。そして同じだけ、彼等のことが、たまらなく憎らしい。ベルその手には、ドゥーガで得た硝煙と血の匂いこそしないが、確かに、引鉄を引いた感触も、刺したナイフの感触もそのまま残っている。
 ベルの全ては、未だ彼らに囚われたままだ。
 するりと、頬をその掌に擦りつけて、ベルは薄らと笑みを浮かべた。
 全て切り刻み、燃やし尽くすまで、彼はいつまでもあの忌まわしくも懐かしい夢を見るだろう。
 けれどもそれは彼にとって、幸福な悲劇の夢なのだ。





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