ソロヴェツキーの廃修道院は、何処も彼処も火の海であった。
冷たい風に煽られて、蛍火を思わせる火の粉が舞う。薄暗い鈍色の空を背景にすれば、それはさながら星のようである。
夜明けは近い。
アドラーは無線でハドソンとやりとりをしていたが、それを終え、ベルを顧みた。
あちこちで上がる火の手をぼんやりと見つめていたベルは、アドラーと視線に気づいて、二つ、瞬いた。その目に敵意はない。
彼等は暫し見つめ合って、ややあって、アドラーは近くに居たメイソンとウッズの方へ向き直った。
「メイソン、ウッズ。撤収作業は任せる」
それを聞いて、ウッズとメイソンはお互いの顔を見合わせてから、アドラーの方へと視線を戻す。
「お前はどうするんだ?」
「ベルと話がある」
「そんな時間があるか? これだけ派手に動いたんだ、モスクワから軍隊がカッ飛んでくるまで、そう時間はねえぞ」
既に日は上がり始めている。
炎に透けた遠くの朝日を指さしてから、難色を示したウッズの言にも、アドラーは緩く首を振った。
「そんなに長くは掛からん。行くぞ、ベル」
そうして、ベルに声を掛けて、彼は先に歩き出してしまう。
呼ばれたベルは素顔を隠すバラクラバの下でも、明らかにそれと分かる困惑を浮かべていた。しかし、すぐにアドラーの後を追って、二人に背を向ける。
しかし、歩き出したその足は途中で止まった。
「メイソン、ウッズ」
呼びながら、ベルは身体ごと向き直る。
「一緒に戦えて、光栄だった。ありがとう」
それは恰も、別れの挨拶のようだった。
思わぬ言葉に二人は揃って瞠目したが、ベルは二人の返答を待たず、向き直って、アドラーを追って行く。
「……ウッズ。どう思う?」
小さくなっていくアドラーとベルの背を見ていたメイソンが、低く問うた。しかし、それは問うまでもないように思われた。
ウッズは至極面倒くさそうに頭を掻くと、仰々しい嘆息を一つ、吐いた。
「クッソ……!行くぞ、メイソン」
「撤収作業は?」
「そんなの、他の奴らにやらせとけ!」
肩を怒らせ、ウッズは瓦礫を蹴飛ばして進んでいく。メイソンは肩を竦めてから、それに続いた。
ソロヴェツキー諸島は鬱蒼とした森が多い。
道中に、彼らの姿は森に隠れてしまったが、追跡の問題にはならなかった。凡そ道とは呼べない場所を、彼等の足跡を頼りにして追跡し、もうすぐ森が終わるというところで、彼等は、重なり合う二発の銃声を聞いた。
「行くぞ!」
二人は一瞬姿勢を低くして身構えたが、すぐにウッズは鋭く叫んで駆け出す。メイソンもウッズに続いて、ごく近くからした銃声の方へと駆け出した。
木々が途切れ、酷く明るく思える開けた崖上の縁、ごく近くで倒れ伏す二人の人影がある。
「アドラー!」
「ベル!」
双方が名を叫んで駆け寄った。
アドラーとベルが、銃を撃ち合ったのは明らかだ。
そしてどちらも外さなかった。その証拠に、二人とも意識がないようだった。メイソンは手持ちの応急処置の道具で、助け起こしたアドラーを治療していく。
「……う」
銃弾は胸に一発。
手早く止血の処理を行うと、痛みからか、アドラーが微かに呻いた。急がなければ間に合わない。
「ウッズ!応援を」
そうしてメイソンが顔を上げた先、同じように、ウッズはベルの手当を始めていた。見れば、ベルも胸に銃弾を受けているようだった。
一瞬、メイソンは目を瞠り、
「……助けるのか?」
問うた声は、いっそ、咎める色が強い。
ベルとアドラーが何故こうなったのか、ウッズにも分からない筈がなかった。誰に指示かは問題ではない。アドラーがこうした行動に出たのは、必ず理由が存在する。ベルは放置するには危険だというのが、ラングレーの総意なのだ。
メイソンにも、それが理解出来る。
CIAには必要悪というものが存在する。常に、合法か、非合法と蔑まれる行為にも手を染めることなど珍しくもない。
こうした行為には慣れている筈だ。メイソンがそうなのだから、ウッズも当然そうであった。
「ごちゃごちゃ言ってる場合か。手遅れになる前に、さっさと行くぞ」
それを重々承知している筈のウッズは、しかし渋面の儘、そんな風に言い放った。
その場で出来る限りの処置を済ませると、ウッズはベルのバラクラバを取り払って投げ捨てた。そして本当にさっさとベルを担ぎあげてしまった。随分と雑な扱いに見えたが、意識を失っているベルは文句を言うことも出来ない。
「お前はアドラーを頼んだ」
「ベルは?」
「アドラーとは別に運ぶ。幸い、こいつの顔はさほど知られてない。他の負傷者と一緒にして紛れ込ませるしかねえな。あとは、伝手を使って匿う」
「リスクだと思うが?」
「降りてもいいぞ」
悪巧みを考える子供を思わせる笑みと共に問われ、メイソンは肩を落として長い嘆息を吐いた。
「…………はあ」
メイソンはウッズを見捨てることなど出来ないし、逆も然りだ。
たとえそれがどれだけ危険であろうが、関係が無かった。ウッズがやるといえば、メイソンに否はない。そういうことだ。
「アドラーやハドソンにはどう伝える気だ?」
「おい、メイソン。俺達はCIAだぞ。こう言う時はCIAらしく行くべきだ」
「つまり?」
ろくな事ではないと知りながら、メイソンは呆れた面持ちで続きを促す。
「事実の省略だな」
そう得意げに話した言葉は、いつかのハドソンが言った言葉とまるで同じだ。
おそらく、本人が聴けば暴れるほど憤慨するであろうと思いつつ、メイソンは今度こそ、肺が空っぽになるまで溜息を吐いた。
***
イスラエルで怪我の治療が終わり、ラザーが戻ってきた時には、全てが終わっていた。
ソロヴェツキーでグリーンライトの核に纏わる一連の事件は収束迎え、CIAの対策チームは其処で解体となった。
連絡を寄越してきたシムスが言うには、ソロヴェツキーではアドラーが負傷し、ベルは彼の地で、命を落としたと言う。
それを聞いて胃の底が冷えた。
ベルの経緯を知らぬ者は、あの作戦の中には一人も居なかった。彼が如何に、有能で、そしてそれだけに厄介であるか。
作戦の後、或いはその中でベルが命を落とすというのは、ラザー自身もある程度予想していた流れであった。
しかし、現実に耳にすると、やるせなさが募る。
せめてと思い、シムスに顛末を詳しく追求すると、長い沈黙の後で、
『作戦の終了までは皆、無事だったらしい。誰も何も言わないが、あいつはアドラーに始末されたんだろう。アドラーも負傷してる。多分、ベルによるものだ』
と、白状した。
直感が当たり、ラザーは項垂れた。一方で、嫌というほど諜報員の考え方がわかる彼は、仕方の無いことだと、自らに言い聞かせた。
そうして彼は復帰した直後に、バージニア州、ラングレーにほど近い医療施設を訪った。
聴けば、アドラーは一命は取り留めたものの、かなりの重傷だったのだという。
彼がアドラーの病室を訪ねた時には、医療器具に繋がれ、上体を動かすので精一杯というような有様だった。
「元気そうだな?」
それが皮肉と気づいたかどうかは分からないが、寝台の上でそれと分かる渋面を浮かべたアドラーは、少し痩せたように見える。
「おかげさまでな」
しかし、話をするのに問題は無いようだった。
ラザーは寝台の近くに置いてある椅子を引き寄せて、腰を下ろす。
「アンタが復帰するまでは、こっちでペルセウスの足取りを追うことになった。帰ってきてから、良い情報が渡せるようにしよう」
「そうしてくれ」
当然のように頷いたアドラーに、ラザーは苦笑する。
そうして、彼は懐から二つほど煙草の箱を取り出すと、傍にあった備え付けと思しき床頭台に置いた。
「これは見舞いだ。バレるなよ」
当然、病院は禁煙だが、アドラーならば上手くやるだろう。
「今日は顔を見に来ただけだからこれで帰るが、次は何か要る物があれば持ってこようか?」
「いや、充分だ」
アドラーは手を伸べて、早速煙草に火をつけた。
もしかすれば、それに飢えていたのかもしれない。
「そうか」
せめて寝台から離れろと忠告するべきだったのかも知れないが、ラザーは苦笑を浮かべるに留まった。
そうして、椅子から立ち上がると、彼に背を向ける。
本当は、訊きたいことがあった。
口にするべきかと迷って、席を立った今でさえ、それを問うことに躊躇いがある。
「アドラー」
彼は、結果、振り返らずに呼びかけた。
「……ベルは」
ようよう喉から絞り出した名前。
そうしてその犠牲は、本当に必要だったのか、と。
そう続く筈であった。
「いや、なんでもない。……じゃあな」
しかし、ラザーは結局、その問いを飲み込んだ。
今現在こうなったのは、アドラーだけではなく、CIA全体が必要と判断したからに他ならないと、彼は知っていた。そうして、そうせざるを得ないだけ、ベルの危険性も承知していた。
まして、結局どういう答えを得たとしても、ベルが戻ってくるわけではないのだ。
アドラーもまた、ラザーの出した名が聞こえたであろうが、去って行くその背に声が掛かることはなかった。
やや俯いて病室を出、薬品独特の臭気がする通路を歩いていると、
「よお、ラザー」
思わぬところで、聞き覚えのある声がかかった。
「……ウッズ?」
病院の壁を背にして、ウッズがラザーを見ていた。
まるで、ラザーを待っていたかのように。
「ちょっと付き合え」
「あ、ああ」
その有無を言わさぬ語調を不審に思いながらも、断る理由がなく、ラザーは頷いた。
彼等は其の儘病院を出、殆ど横付けするような形で駐めてあった車に、促される儘に乗り込む。
そうしてウッズの方をみると、彼は酷く厳しい面持ちをしていた。
運転席に乗り込んだ彼は注意深く周囲を目で確認し、まるで、戦地にでも居るかの如く、何かを警戒しているようだった。
やがて、行き先も告げぬ儘、車は走り出した。
助手席に座ったラザーは、暫く車の進行方向を見据えていたが、幾つか角を曲がり、追跡を気にしているような素振りを見せる。
何度目かの角を曲がり、後方の車が一台もなくなる頃、ラザーは何の説明もしないウッズの方を見て、痺れを切らした。
「何処へ行く気だ?」
しかし、彼は厳しい表情の儘、進行方向を睨んでいる。
ウッズは普段、求めもしないのに饒舌だった。いっそ騒がしいと言えるくらいだ。任務においても無駄口が目立つことを、ラザーはよく知っている。
訊ねても暫く無言を貫いたウッズを訝しんで、ラザーは眉を寄せた。
「おい、聞いているのか?」
「お前は、ベルには借りがある。そうだな?」
そうして、促すために口を開いたラザーの言葉を遮って、思わぬ名と、問いが飛んできた。
ラザーは閉口し、思い浮かべたのは、キューバでの風景だった。
痛みでぼやける視界の端で、パークに向かって腕を伸べ、救いだそうとするベルの姿。
助けきれなかったパークの名を、切迫した様子で叫んでいた、その声。ともすれば、其処で呼ばれたのは、自分の名であったと、彼は思う。
あれは真に仲間を気遣う声だった。悲痛で、切実だった。
「……ああ。そうだ」
僅かな間を開けて、ラザーは首肯する。
「直後に手酷い目に遭わせて、それっきりになっちまった。出来るなら、あいつに何か……、返してやりたかった」
偽りであっても、仲間を思うその真摯さに対する礼を、最悪の仕打ちで返すこととなった。そのことを、今でも彼は、申し訳なく思っている。
それを聞いて、ウッズは硬かった表情を僅かに和らげた。
「そうか。じゃあ、今返せ」
そうして、予想外の言葉を告げる。
ラザーはそれを聞いて、思わず、座席から背を浮かした。
「それはどういう……。待て、まさか生きてるのか?」
ラザーに詰め寄って問われ、ウッズは前を睨んだ儘、肩を竦める。
「今のところはな」
「……そう、か。……そうか……」
ウッズの答えを聞いて、彼は脱力したように座席に沈み込んだ。その時、心から、安堵の吐息が漏れた。しかし、次の瞬間に浮かんだのは、危惧であった。
「独断だろう? 大丈夫なのか?」
「バレちゃいねえよ。まだな。バレたら隠蔽すりゃいい」
「まさにCIAらしく、か? だが、アンタがこんなリスクを冒す理由がない。何故だ?」
「拾った時に一回、任務で一回、あいつを助けた。そんだけ助けたもんを、今更死なすのは、寝覚めが悪い。それ以上があるか?」
清濁併せ呑むことが求められる場所で、ウッズの意見は余りに真っ当だった。
直情的な人間と知っていたが、此処までとはと、いっそ清々しいまでの言葉に呆れてしまう。
しかし、嫌いではなかった。
「……そうだな。俺もそう思う」
彼等の生業は偽りを重ねる因果な職だが、たまには素直になることも必要だ。
心のままに頷くと、その答えを聞いてウッズは笑みを深め、車のアクセルを踏み込んだ。
暫く車を走らせてたどり着いたのは、まだ州さえ超えない範囲だった。
流石に都市部を離れた場所なだけあって、閑静な場所ではあったが、灯台の下は暗いということだろう。
古びた小屋に車を横付けすると、その音を聞きつけてか、小屋に明かりが灯った。
「……此処が?」
車を降りてウッズに問うが、彼はそれに答えずに、さっさと小屋に入ってしまう。警戒など凡そ頭にないような行動だった。
ラザーは慌ててウッズを追いかける。今にも朽ちそうな扉を押すと、矢張り、木が唸るような音を立てた。
「来たな」
扉のすぐ傍には、メイソンが立っていた。その手には、拳銃が握られている。
ラザーはメイソンも加担していることに驚いて、思わず目を剥いた。
「……アンタもか?」
「相棒が我が儘でな」
「そりゃ……、苦労するな」
元よりメイソンもウッズと同じく衝動的な気質であると、聞いたことがあった。二人が一緒になると、良い事も悪いことも、増長するに違いなかった。
丁度、今がそうであるように。
ウッズを目で追うと、彼は小屋の奥で、傍で横たわる人物を覗き込んでいる。
農機具の散乱する粗末な場所の奥まったところに、不釣り合いな古びた寝台が一つ。傍らには更に不釣り合いな医療器具と思しき点滴台が立っている。
それに繋がれる形で横たわっている姿は見間違いようも、疑いようもなく、ラザーは息を呑む。
「なんだ、寝てるのか?」
「眠らせたんだ。そろそろ起きるだろう」
「おい、起きろ」
ウッズが無遠慮に頭を叩くと、寝台に横たわった彼は、ぼんやりとその目を開けた。
間違いなく、ベルだった。
色素の薄い目が、ぱたぱたと瞬くのが見えた。間違いなく、生きている。
「……う」
彼は一つ呻いて、上体を起こす。
余程ぼんやりしているのか、頭を何度も振ってから、額を抑えて俯いた儘、
「メイソン、また薬を盛ったな?やめろと言っただろうが」
と、地を這うような声で言い放った。
「次にやったら、殺すぞ」
そうして顔を上げ、メイソンの方を睨め付ける。
しかし、メイソンの隣にラザーの姿を見留て、すぐにその殺気に近い怒気は消えてなくなった。
「……ラザー?」
代わりに、呆気にとられて彼は目を瞬かせる。その名を呼ぶ声は、酷く間が抜けていた。
「よお。元気そうだな。ベル」
実際、ベルはアドラーほど重症ではないように見えた。医療器具を見るに、どこか怪我はしているようだが、その動きにぎこちなさは最早無い。
パークは、ベルの回復力は驚異的だと言っていた。
西ベルリンのセーフハウスでは毎日のように、彼に対して薬品の投与と尋問が行われていたが、当人は眠りが長くなる程度の障害を得ただけで、それ以外は大した後遺症もないと言った、呆れた頑丈さだった。
ラザーはベルの様子に一応の安堵を得て肩を撫で下ろしたが、当のベルは状況がよく掴めていないようだ。当惑したように、ウッズとメイソンを見比べている。
しかしそんな彼を気にした様子もなく、ウッズはそのまま、寝台の空いたスペースに座ると、
「揃ったな。始めるぞ」
そうして、号令を掛ける。
メイソンはそれに一つ頷くと、寝台の傍に置いてあった古びた木製の箱を椅子代わりに腰を下ろした。
ラザーはメイソンについて行き、少し後ろに立って、事の成り行きを見守ることにした。
「ベル。お前は生きていたいか?」
口火を切ったのは、メイソンだった。余りに直截的な物の言い方に、ベルは顔を顰める。
「死にたければ、そうしてやる」
そして、次に続いた言葉には、ラザーが目を瞠った。
実際、メイソンの手には拳銃が握られた儘だ。ベルが頷くだけで、その引鉄を引くことは容易いことだろう。
「メイソン」
ラザーは思わず咎める声を上げたが、メイソンはそれに答えることなく、じっとベルを見つめていた。
ベルはラザーとウッズ、そしてメイソンを順に見た。その色素の薄い目からは、かすかな困惑が見て取れる。
「生きたい、と言ったところで、そんなことが可能なのか?」
ベルのその一言は、置かれた状況がどういうものなのか、彼自身がよく理解しているように思われた。
短い沈黙の後で、メイソンは一つ小さく溜息をついた。
「もし、お前がそう望むならば、お前には、全て捨てて貰わなければならない」
「は……」
メイソンが告げた言葉に、ベルはたった一音だけベルは音を発し、そうして、絶句した。
やがて、言葉の意味を理解したように、ゆるゆると、その整った面が歪みだす。
「ハハ、ハハハハハ!!」
遠慮のない哄笑だった。
歪なそれは、いっそ泣き声のようにも聞こえた。
彼の笑い声を止めるものはなく、ウッズは顔を顰め、ラザーは困惑を浮かべ、メイソンは眉一つ動かさず、ベルの笑い声が静まるのを待った。
やがて、笑いすぎて傷に障ったのだろう。その笑い声が乱れた。一瞬、呼吸に喘鳴じみたものが混ざる。ベルは胸元を抑えて息を整えると、一度顔を伏せ、やがてその面を上げる。
「教えてくれ、メイソン。私に、今、何か棄てられるだけのものが残っているか?」
そうして乞うその様と、その内容は、余りにも悲痛だ。
ラザーは思わず、ベルを直視出来ずに、足元に視線を落とした。
その事に構いもせず、ベルは続ける。
「元の名前も、過去もない。かつての同胞も裏切り、この名を得てから仲間と信じたものも無くした。今の私に、一体何が残っているというんだ?」
ラザーはメイソンとウッズと違い、あのセーフハウスで行われていたことの一部始終を見ていた。
しかし、少なくとも記憶を操作されていると知らなかったベルにとっては、あのキューバの任務後の出来事はまさに青天の霹靂だったに違いなかった。
全てが偽りだと知った時、何もかもがひっくり返ったかのような、驚愕と悲愴。今のベルには、あの時の彼を彷彿とさせる。
しかし、あの時にはまだ、ベルには怒りがあったように思う。
今はそれさえ感じられない。
あるのはただ、底なしの悲痛さだけだ。迷い子のような、血を吐くような、耳を塞ぎたくなる哀切が其処にある。
「すまない」
それを聞いて、思わずラザーの口からはそんな言葉が溢れ出た。
ベルは俯き、力なく首を振る。
「やめてくれ。赦される為に謝るな。……赦してやれない」
その答えに、ラザーは拳を握る。其の言葉は、いっそ詰られたほうがマシだとさえ思えるものだった。
メイソンはベルとラザーのやり取りを眺めていたが、ややあって、それさえも断ち切り、容赦なく告げる。
「その恨みも、捨ててもらう」
「……恨み?」
ベルは訝しげに顔を上げメイソンを見据えたが、やがて目を伏せ、言葉の代わりに微かに首を振った。
そして、虚空を見据えて、下方に視線を落とす。彼がどんな言葉を飲み込んだのかは、誰も知らない。
「まさに、一切合切というわけか……」
自嘲するような響きに諦めを感じ取り、ラザーは一歩、前に進み出た。
まるで請うように、地に膝をつき、寝台に座った彼を見上げる。
「お前は俺の命の恩人だ。命の借りは、命で返す。お前が生きたいと望むなら、命を賭けて、お前を生かすと約束しよう」
「……CIAに、背いてまでか?」
ラザーに視線を落としたベルが浮かべたのは、困惑だった。
それを払拭するように、ラザーは一つ、力強く頷く。
しかし、ベルは余計に困惑を深め、次はメイソンとウッズを見た。
「ラザーが私に借りがあると思うのは分かる。だが……」
ベルの視線を受けたメイソンとウッズはお互いに一瞥し合い、メイソンが口を開く。
「お前が尋問の末、俺たちを信じる方に賭けたのは分かってる。聴いた話では、お前の洗脳は不完全で、お前に口を割らせるまでには至らず、結局、証言を信じる他なかった。だとすると、お前は俺たちを騙すことも出来たはずだ。だが、そうしなかった。何故だ?」
「私は……、信じたものを裏切らない主義だ」
ベルが真摯に答えた内容に、メイソンは小さく、息を吐くように笑った。そうして、ウッズに視線を移す。
ウッズは歯を見せて一笑し、
「お前が俺たちに賭けたのは無駄じゃなかった。そういうこった!」
と、ベルの背を無遠慮に叩いた。
それが丁度傷の位置だったらしく、ベルは呻いて崩折れた。
しかし、特に気にした様子もなく笑うウッズの声を聴きながら、彼は伏せた顔の下で、その表情を緩める。
そうして、ベルは生きることに決めたのだった。
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