「ベルは始末したほうがいい」
ハドソンの口にしたそれは、提案のようであったが、その実、決定事項であることをアドラーはよく知っていた。
しかし、アドラーは即答できなかった。
ベルは優秀過ぎた。看過出来ないと誰もが判断するほどに。
彼は己自身で、周囲を、そしてあのハドソンを納得させるほどの働きを見せた。皮肉にも、それが彼が野放しにするには危険であるという証左になる。
作戦の最終局面において、ベルは自らの立ち位置を理解した上で、彼らの側を選んだ。だが、それがいつまで続くかはわからない。
ベルの精神の維持には時間も資金もかかっている。それを維持する必要がなくなった今、不安要素の残る存在を生かしておくべき理由が無い。
アドラーは理性的にそう判断していた。ハドソンであれば、そう言うであろうことも予想の範疇でしかない。
「……アドラー? 聴いているのか?」
ハドソンのその問いは、アドラーが是と答えるのを待っている。
それでも、喉の奥で止まった言葉。
アドラーは手に持った無線から意識を離し、肩越しにベルの姿を探した。
彼方此方で上がる火の手の中、瓦礫の上に立って、薄れゆく空の星を追うように、一人、遠くを見つめるその姿。薄汚れ、煤塗れているのは、彼が奔走した証だ。
他でもない、彼らのために。その姿は戦友と呼ぶに相応しい。
「分かっている」
アドラーはその姿から一度目を逸らし、無線に向かって、自らに言い聞かせるように答えた。
*** *** ***
洗脳を終えたベルのその後は、概ね良好であった。
東側、或いはペルセウスに関する情報は頑なに開示をしなかったが、それ以外においては、設定した通りに、昔ながらの戦友という態度であった。今のところ、記憶の定着も問題なく、アドラーやシムスに対する反応も友好的である。
それでも、彼の作戦参加は諸々の試行と準備を経て行われなければならない。
目下、憂慮するべき最たるものは、彼が単独行動の折に問題なく任務を行うか、であった。
作戦の性質上、彼は極めて重要な立場に立つことになる。作戦の要と言っても過言ではない。過去接していたかもしれない東側の人間と接触することもあるだろう。
不安要素は極力取り除かれるべきであった。
そういった理由から、ベルの負傷が癒え、記憶の定着を終えてからの数日間は、外での行動に際する外部刺激の順応などの確認に注力することとなった。
それを終えても、最後には武器を持たせた際の適正を見る工程も後に控えている。
ベルを外に連れ出す理由は、買い出しという瞑目の簡単なものから、食事や酒を飲みに行くという雑な理由まで様々だ。必ず、シムスかアドラー、またはその双方が付き添った。
単独行動を取らせる時も、それと気取られることがないよう、矢張りアドラーかシムスが尾行についた。
今日は食事と買い出しという名目だった。今、ベルが抱えているのは、明日の食料や細々した日用品である。
「ベル、そろそろ戻るぞ」
五時を目前にして周囲が薄暗くなる前に、アドラーは少し離れた場所で車道のほうを眺めていたベルに声を掛けた。
厚手のロングコートに身を包んだベルは、白い息を吐いてから、名残惜しげに街並みを目で追い、ややあって、アドラーに視線を戻す。
彼は歩調を速めてアドラーの傍に寄ると、
「もうすぐベルリンに移動するんだろう? 当分家には帰れそうもないな」
と、片手に持った紙袋を抱え直し、夕闇迫る街を歩き出す。
「ベルリンに行けば、セーフハウスに缶詰になる。出歩けるのも今のうちだ」
「そのセーフハウスが住みやすいことを祈るよ。天下のCIAの基地なんだ、多少はその辺は融通が利くと思いたいが、どうなんだ?」
「スパイの施設が目立つ建物である筈がない」
「それはつまり、期待しない方が良いと言う意味か?」
うんざりしたように顔を顰めるベルに、アドラーは咥えていた煙草の煙を吐き出して答える。
「弾丸が飛んでくるジャングルに比べれば、何処でも天国だろう」
「マラリアだの赤痢だのとも無縁だし、って?」
刷り込んだ記憶の内、ベトナム時代の頃の話を出すと、ベルは露骨に嫌悪感を露わにした。彼の地では病気や麻薬が蔓延していたし、それを抜きにしても、ろくなものではなかった。ベルのそれは疑似体験でしかないが、彼の内ではまさしく真実として定着していることを、話す度に確認する。
まるで同じ体験をした戦友と話している気にさえなるほどだ。
「まあ、確かに。そりゃそうだ。けど、シムスの前でその話はやめてくれ」
「奴は繊細だからな」
「あんたに比べりゃ、シムスだけじゃなく私だって繊細ってことになるだろうさ」
ベルがそうして、アドラーのことをよく知る者のように語るのは、シムスの記憶によるものが大きいのだろう。アドラーと戦場を駆けたシムスの体験を、ベルは追体験している筈だ。
ベルは大仰に嘆息する。白い息が中空を彷徨って、消えた。
「セーフハウスについては期待しない方が良いのは解った。まあ、今の拠点は快適だから、今のうちに堪能しておくことにするよ」
歩き始めて暫し、見えてきた彼等の現在の拠点は、ごく普通の煉瓦造りのマンションだった。ラングレーにほど近い、CIA所縁の仮の住処だ。ベルの準備が済むまでという名目で用意されたものだった。
ベルの扱いに懐疑的、且つ保守的な者は、彼を本拠地に野放しにすることに難色を示したが故の拠点であった。洗脳プログラムには、内部でさえその成果に疑問を示すものがある。そういった者が、敵国の兵卒にすぎないベルを、内部に放置することを良しとしないのは無理からぬことではある。
ともあれその拠点は、CIAの協力者の所有するもので、アドラー自身は拠点の経緯も持ち主もよく知らないが、シムスが手配したものであることが解ればそれで充分だった。ベルの指摘通り、住み心地も悪くはない。
建物の二階が彼等の拠点だった。
さらに上階には、有事に備えてパークも待機している。日々の薬の投与時の経過観察を行う際に彼女とは毎回顔を合わせるが、今のところ、目立った問題もなさそうだった。
「で、ベルリンにはいつ?」
扉を開けてエントランスを超え、すぐ脇にある階段を上がりながら、ベルはアドラーを肩越しに振り返った。
「お前の戦闘訓練が終わったらだな」
「それ、いつ始まるんだ?」
「手続きが終わったらだ。だが、そろそろだろう」
「ふぅん?」
まさか、ベルの日常行動に異常が見られないことが確認できたら、などと正直に答えるはずもない。
上階にたどり着いたベルは、懐から鍵を取り出して部屋を開ける。アドラーもそれに続いた。
すぐに見えた広々としたリビングには、シムスの姿はなかった。彼は今、本部で諸々の準備に追われているに違いない。
よく片付いた室内は生活感は皆無だが、一応のものは揃っている。
リビングの中央には、テーブルとソファ、部屋の端にはテレビが鎮座していた。テーブルには、今朝片付け忘れた灰皿や、マグカップなどがそのまま放置されている。
そこで作戦の準備が整うまで、数日生活することになるとベルには説明してある。シムスとアドラーが一緒であることには、特段、難色も示さなかった。曰く、一緒に寝泊まりだなんてベトナムの頃みたいだ、などと呑気に宣って、シムスの顔を曇らせたくらいだ。
無論、傍に居る理由は監視のためだ。今も、アドラーの服の下には武器と麻酔銃が隠されている。
「腕は鈍ってないつもりだが……」
ベルは備え付けのテーブルの上に荷物を下ろし、革の手袋とマフラーを外してから、アドラーを振り返った。
「失望させないようにしないとな?」
ベルはベトナムでの行軍以来、久々にCIAから招集を受けた事になっている。そして、本人はそう信じ切っている様子だ。
現状、ベルがどの程度の実力を持つ兵士であるのかは不明だ。
しかし、身柄を抑えた状況を見ても、ペルセウスに与する兵士の一人であったことは間違いない。
どちらかといえば、武器を持たせても、彼らに牙を剥くことはなさそうかと言うことを、多少時間を掛けてでも精査することが求められた。
「正直、退役してから頼られたことなんてなかったし、忘れられてるのかと思っていた」
「お前はベトナムを忘れられたのか?」
「冗談。昨日のことのように覚えているよ」
実際、ベルにとっては最近の出来事で間違いない。
アドラーは微かに笑んで、ベルと同じく着込んだ革のジャケットを脱いで、ソファに預ける。
「でも意外だな。あんた、任務が終わったら、私のことなど綺麗さっぱり忘れそうなのに」
「そうかもな」
「うわ」
ベルは屈み込んで紙袋を漁りながら、心底嫌そうな声を上げる。
「まあ、あんたらしいが……長い付き合いのはずなのに、未だにアドラーのことはよくわからない」
「本人を目の前にして言うことか?」
「あんたは私の個人的な意見など、気にするようには見えない。まして好悪なんて。……気にするのか?」
「しない。仕事さえ熟せればお前が俺をどう思おうが、関係ない」
「ほら、これだ」
ベルは立ち上がって振り返り、軽く肩を竦めて見せる。
「まあいい。あんたにはベトナムで幾つも借りがあるし、惚れた弱みだ。頼みくらい、いくらでも聞くさ」
「……何だと?」
そうして、聞き逃しそうになった言葉に、思わず短くなった煙草を落としかけた。
アドラーは手近にあった灰皿にそれを押し付けて火を消すと、もう一度ベルを覗う。
「ん?」
しかし、当のベルは不思議そうに小首を傾げた。
「……下らない冗談は止せ」
誂われたと察して、アドラーは思わず顔を顰めた。
しかし、ベルはアドラーの返答に、思わぬことを言われた、と言いたげな表情で瞬いた。
そして、ふと、咲う。それは酷く蠱惑的なものであった。アドラーはその一瞬、わずかに細められたベルの瞳に浮かぶ喜色に、見惚れた。
ベルにとってはその一瞬で十分だったようだった。
「お望みとあらば……、証明してみせようか?」
彼はするりと猫のように、滑るようにアドラーとの距離を詰めた。気が付いたときには、お互いの顔を覗き込むほど近い。
アドラーは咄嗟に下がったが、丁度背後にあったソファに阻まれた。同時に、殆ど反射的に、背に隠してあった銃に触れる。しかし、それを引き抜くには至らなかった。反対の手で、近づくベルの口元を抑えるのが間に合ったからだ。
息さえかかりそうな至近距離、ベルの目が不満そうに細められる。
「何をする気だ?」
その問いに、間近でぱたぱたと長い睫毛が上下する。
ベルは口元を抑えるその腕を咎めるように握りしめると、ほんの僅か頭を後ろに下げる。ベルの口元に充てた掌に、湿った呼気が触れた。
「この状況で、それを確認する必要があるか?」
「あるから訊いている」
「じゃあ手を離すことだ。それでわかる」
ベルの挑発的な言動は、悪戯を持ちかける子供のようだ。レンズ越しに見据えた双眸は、ただ、アドラーだけを捕らえている。
彼はベルを警戒するべきであるし、突き放すべきと理解していた。
けれども見つめ合って暫し、ベルが焦れたようにアドラーの手を引き剥がすのを、拒むのを忘れた。彼はその理由を、その後もずっと、理解できない儘になる。
それを許可と取ったベルは間近で笑みを浮かべる。
彼は美しい人だった。改めてそれを思い知らせるような笑みであった。それは蜘蛛が獲物を絡め取る様に、酷く似ている。どこか影のある、しかし目を惹き付けて離さない。そんな笑みだ。
それが当然であるかのように、彼はその薄い唇を寄せる。触れるだけの、児戯にも及ばない短い口づけだった。
すぐに離れ、伺うような眼差しがアドラーを捕らえる。
この至近距離だ。色の濃いサングラス越しでも、アドラーの反応を見ることなど、造作もないだろう。
今どんな顔をしているのか、彼は自分自身でもよく分からなかった。ただ、再びベルの目元が笑みの形に変わったかと思うと、唇が重なる。啄むような、触れるだけの。
気がつけば、甘い香りがする。
受け入れながらも、何故、こんなことになったのかと彼はふと疑問に思った。
寄せられた目を瞠るほどの思慕は勿論、彼等が意図したものとは違う。或いは、行った洗脳が、ベルの中で捻れたのかもしれなかった。
それを今すぐに確かめる術はない。
そして一度許してしまえば、あとは済し崩しも同然だった。どちらともなく口を開き、深く、口付ける。
途端、強い果実のような甘みを感じたかと思えば、ベルが舌で何かをアドラーの口腔に押しやった。
何か堅い感触を舌の上に感じて、ざっと血の気が引いた。途端に正気づいて、アドラーは咄嗟にベルを押しのける。
しかし、からり、と音を立てて歯に触れたそれは、
「……飴玉?」
ラズベリーの味がした。口の中で転がし、正面を睨むと、ベルは僅かに身体を折って笑っていた。
「あはは、上手く行った。しかし、苦いな。煙草の味しかしない」
ベルは顔を顰め、もごもごと口を動かしてから、さっさとアドラーの傍を離れて、先程買った紙袋の中を漁り始めた。
アドラーは、口の中で広がる甘みに眉を寄せる。
「……甘い」
「だろうなあ。あんたもシムスもバカみたいに煙草を吸うから、口寂しくなった」
ベルが振り返って手に握っていたのは、丸い缶に入った飴だった。それを開け、中の一つを口に放り込むと、これみよがしにアドラーに分かるように示して見せる。からん、と缶から音がして、怒気など削がれてしまった。
アドラーは、ソファに預けたジャケットに手を伸べ、ポケットから煙草を取り出し、箱をベルに差し出す。
「要るか?」
しかし、ベルは肩を竦めて、緩く首を振った。
「もうやめた。知ってるだろ?」
知るものか、などとは声に出せなかった。
代わりに、口腔に残ったままの飴玉を転がしてみる。よくある、何の変哲もないはずのそれは、記憶にあるよりもずっと、甘い気がした。
*** *** ***
ラングレーにはCIA局員の為のデスクがあるが、それが真っ当に役割を果たすのは稀だ。
その稀な機会に、これもまた珍しく局を訪れたウッズが、彼の机を覗き込んだ。
「よう、アドラー。グリーンライト以来だな」
挨拶もそこそこに、彼はアドラーの机を椅子代わりに腰を下ろす。
「怪我はもういいのか?」
「良くはないから、此処に居るんだ」
「成る程な」
アドラーは顔を上げ、ウッズの周囲を見渡しかけ、思い留まった。
探したところで、メイソンの姿は見当たらない。
アドラーがソロヴェツキーで負傷し、なんとかCIAに戻ってきた頃には、メイソンはCIAを去っていた。理由については既にハドソンから聞き及んでいる。
そしてウッズは此処に残った。
ウッズは普段求めてもいないのに饒舌だったが、メイソンの身の振り方については、なにも喋らなかった。彼らには彼らの理由があり、決断がある。アドラーもまた、それについて敢えて訊ねなかった。
ただ、彼の傍らにメイソンがいない、というのは、ある弊害を産む。
即ち、ウッズの相手を務める者が居なくなる、ということだ。
「なんだこりゃ」
そうして、本日の標的になったらしいアドラーの机を、無遠慮に物色していく。ウッズが手に取ったのは、掌に余る程の、平たく丸い缶だった。
「飴玉? お前、こんなん食うのか?」
ウッズが振ると、それはカラカラと重い音を立てる。
「封切ってねえな。貰いモンか?」
言いながら、ウッズはアドラーの答えを待たずに缶を開けた。一つ取り出して口に放り込むのを尻目に、アドラーは手元の書類に視線を落とす。
「欲しければ持って行け」
ウッズには答えなかったが、それはアドラー自身が買い求めたものだった。
退院したその日、立ち寄った店でたまたま見つけた見覚えのあるそれを、何故購入しようと思い立ったのか、アドラー自身も理由を知らない。考えたくなかったのかもしれない。
ただ、手元に置いたまま、手を付けることもなく傍らに在った。しかし、別段無くなったところで、どうということもない。
「……そうか?」
ウッズはしげしげとその缶を眺めると、中から一つだけ取り出して、机上に戻した。
「ほらよ」
そうして、何を思ったか、指で摘まんだ飴玉を突きつけてきた。
アドラーは思わず顔を顰めた。しかし、賢明にも、強く拒否を示さなかった。下手に拒む方が面倒だと、経験から知っていたためだ。
渋々それを受け取り、仕方なしに口に運ぶ。
それを見届けたウッズは、アドラーの机から降りると、一つ、乱暴にアドラーの肩を叩いて去って行った。
ころりと、口腔で弄んだそれは、知った味がする。ただ、記憶にあるよりも、甘くはない気がした。
脳裏に浮かんだのは、間近で観た長い睫毛が上下する様。
蠱惑的な瞳。
寄せられる、笑みを象った薄い唇。
惑わすように名を呼ぶテノール。
わざわざ思い返せば、それらは些細な仕草ばかりだ。
それも今に忘れる。そのはずだ。
蓋の開けた儘の缶の中には、色取りどりの飴玉で溢れている。それは、玩具のようであり、眩い宝石のようにも見えた。
アドラーはそれから、そっと視線を外した。
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