殺さなければ。
 見知らぬ真白い天井を目にし、ユーリは強くそう思った。
 生き残ったのだという実感と共に湧き上がったその感情は、名付けるなら使命感とも、義務感とも言えた。
 必ず、殺さなければ。
 襲い来る眩暈をやり過ごしながら、肘を突いて上体を起こし、人工呼吸器も、身体中に着いた医療器具も躊躇なく引き剥がした。悲鳴を上げるように、医療機器が一斉に耳障りな音を立てる。
 彼はその一切合切を無視して、ベッドから転び出る。地にしっかりと足をつけたつもりであったが、萎えた足は思ったように言うこときかず、彼はすぐ傍の点滴台を道連れにして床に崩れ落ちた。
「……ぐっ、ぅ」
 そうして漸く、鳩尾の銃創から響く激痛に、呻き声を上げた。
 震える手で患部に触れる。硬い包帯の感触が返ってきたが、確認するまでもなく、傷口は開いただろう。深く瞑目し、痛みを堪えながら呼吸を整え、注意深く起き上がる。その途中で、頭を殴られたような目眩を覚えたが、ベッドに手を突いて、ようよう立ち上がった。最初はゆっくりと、やがて痛みを抑えつけ、壁を頼りに歩き出す。
 テロの現場に居合わせ、しかも手に銃を持っていた者を、監視もなしにおいておくはずがないと踏んで外の気配を伺ったが、不思議なことにそれらしい人の気配はなかった。僅かに扉をずらし、様子を伺う。誰もついていないようだ。
 ユーリはこれ幸いと抜け出し、白い通路を進む。遠くで人の気配はしたが、それより手前に非常階段を見つけた。出来るだけの速度で近寄り、身を滑り込ませる。
 非常階段はしんと静まり返っており、人の気配も遠かった。一先ず安堵して、できる限り早く階段を降り始める。
 壁に身体を預け、一段一段踏みしめながら、思い返すのはやはり一つだった。
 今、マカロフは何処にいるのだろう。脳裏には、いくつかの潜伏先が候補に上がっては、消えていく。
 今までは心強く思えた古巣の脅威が、今更身に染みる。マカロフの喉元に喰らいつくには、単独ではまず不可能であった。同じだけ強力な組織に身を寄せる必要がある。しかし、そう思うに足るだけの心当たりは、少ない。
 ユーリはマカロフの最も近くにいたと、そう自負できる。すべてを知っていたわけではなかったが、これだけは確かなことがある。あの男は、息の根が止まるその瞬間まで、自身の道を曲げはすまい。
 あの狂気を止めるということは、即ち、殺すということだ。
 もっと早くに、ユーリが抱く理想と、マカロフが抱いた理想の齟齬に気がついていたら。
(気がついていたら……、俺は、どうしただろう?)
 縺れるようにして、足が止まる。ユーリは軽く頭を振った。仮定や願望はいつだって事態を変えない。無駄なことに時間を割く余裕は、もうない筈だ。
 ユーリには、選べる道はほぼなかった。自身も気がつかぬ内に、その道を閉ざしていた。萎えた足の一歩一歩は他の道を素通りし、全て、マカロフへと繋がる。それ以外、選ぶ余地もなかった。
 その理由を、ユーリは上手く言葉にすることが出来ないでいる。
 どの感情も、理由も、的確にこれだと思えるものが存在しなかった。それでありながら、決して、目を逸らすことが出来ない。
(昔からそうだ。考えるのは、アイツのほうが、得意だった)
 そうして全てを信じて、目を瞑っていたつけは、やがてユーリ自身に返った。
 敵味方の区別なく全てを焦土に帰す光景。或いは、奸計に巻き込まれてしまった、罪なき人々。それらを目蓋の裏に写して、それらは自身の罪でもあると、彼は知っていた。
 止めさせなければ。
 何故凶行に走ったのか。
 無辜の民を犠牲にしてまで。
 そうすべきではなかった。
(そう思って居るのは、俺だけだとしても)
 目覚めてから、己の声を聴いた。急かすような、祈るような、叫ぶような、縋るような、己の声だった。耳の奥で、それらは全て、同じ事を叫んでいる。
 殺さなければ。必ず、殺さなければ。
 誰かの手でそれが為される前に。他の誰でもない、自分の手で。
 しかしそれは、間違いなく、彼らが積み重ねた情の終局であり、帰結であった。
 彼は歯を食いしばって一歩一歩進んだ。その跡には、涙のような血痕を残して。
(ヴォロージャ)
 嘗て、ユーリは親しみを込めて、彼をそう呼んだ。もう、その音が響くことは、ないだろう。


*** *** ***


 真昼に感じた高揚感や達成感は、今は遠い。
 隠れ家の一つに身を寄せた彼らは、作戦の成功を祝い、これから始まるであろう大禍を確信しつつある。
 世界は彼らが望んだ通りになるだろう。
 だが、その中心に在るはずのマカロフは、一人、ソファに身を横たえていた。
 暗く沈んだ部屋では、彼のすぐ傍の端末だけが、唯一の光源として異彩を放っている。
 音のないはずの部屋に、酷く冷静な己の声がする。
 殺さなければ。
 それは警告であった。
 そうと分かっていて、しかし、今更どうにもならないものであった。
 目を閉じれば、血溜まりに倒れ伏す、嘗ての友の姿がある。
 殺さなければ。
 そう、理性では、そうするべきと分かっていた。そうしなければならなかったし、あれほど長く友と信じた男でも、銃を向けること自体には不思議と躊躇はなかった。にも関わらず、銃口はユーリの鳩尾辺りで止まった。本来であれば、正しく、その両の目の間に銃口を向けなければならなかった。
 その瞬間、ユーリは真っ直ぐマカロフを見据えていた。その瞳の奥にあったのは、敵意と、そして、翳りゆく友誼のただ二つ。
 逡巡は、一瞬だった。彼は結局、鳩尾の辺りで引き金を引いた。
 腕が意思に逆らったその理由を、マカロフは知っているような気がした。喩え、それが認めたくもない理由であったとしても。だが、それきり、彼はそれについて考えるのをやめた。
 やるべきことがあった。
 それを理由に、マカロフはユーリを其処に置き去りにした。
 何れにせよ、重傷には違いない。上手くすれば、其の儘命を落とすかも知れなかった。だが、そうして過ぎ去ってみると、己の甘さが身に染みた。凡そ確実性を度外視しているとしか思えなかった。
 その堅固な意思は、まるで鏡を見るようだ。
 いつだったかマカロフは、ユーリを見て、そう思ったことがある。己を貫き通すその姿勢は、共に様々なものを踏み倒してでも敷き上げてきた道の上、同じものを見ていたからこそ、今までぶつかり合うことは無かった。
 しかし、おそらくは五年前の中東で、あの時、ユーリの中で何かが変わった。
 立ち昇る爆炎、灰が降る死の街、それを目にした時のユーリの表情は、動揺だったように思う。普段は飄々とし、何を考えているかも良く分からない男が、目に見えて狼狽えたのだ。
 ユーリがマカロフの行動に異を唱えたのは、その時が初めてであったように思う。
 それが始まりだった。
 空港襲撃の計画が持ち上がったのは、シェパードとの内約があった上での事だったが、それを知る者は当事者のみであった。そして、それと知らず、ユーリは彼らに情報を渡した。
 当然、内通者の情報は、表向き敵として存在する彼らから、マカロフの元に齎される。
 不審な動きがあることは、すでに知っていた。だが、それまで泳がせていたのは、ユーリが本当に同胞達に、否、マカロフに反目するかどうかを見極めるためだったが、決行の日、彼はユーリが障害になるであろう事を確信した。
 必ず、殺さなければ。
 そうして、銃口を向けるまでは、強くそう思っていたはずだった。
 だが、蓋を開けてみればこの有様であった。
 手元の端末には、空港の状況について調べている同胞から、短い連絡が入っている。
 曰く、ユーリと思しき人間が近くの病院に搬送され、一命をとりとめたこと。更に、収容された病院から、その日の中に、忽然と姿を消したこと。
 ユーリが、生きている。
 その報せを聴いた時の感情を、マカロフは上手く言葉にすることが出来ないでいた。しかし、ユーリが生きている以上、確かなことが一つある。
(追ってくるだろう。なんとしてでも。あれはそういう奴だ)
 そう、結論づけた。
 ユーリとマカロフは、そういう面ではよく似ていた。鋼の意思を持ち、決して揺るぎはしない。ユーリが生き延びたなら、もっと大きな障害になり得る。
 知っていたはずだ。だからこそ、躊躇う筈ではなかったのに。
 その答えを探しながら、彼は暗闇の中で、手元に視線を落とした。ユーリを殺したがらなかった、その掌に。彼はゆっくりと、しかし確実に、その掌を握りしめる。銃を握った感触は、もう、無かった。
 追ってくるなら、次があるのであれば、次こそは必ず。
(ユーリ……)
 その名は、音にならない。
 袂を分かち、今や銃口を向け合う未来が手に取るように見える中で、それでも、彼にとってユーリという人物は、遠い昔より共にあった友人だった。
 ただ一人の、親友だった。
 喩え手に握りしめた拳銃の引き金を絞った瞬間にも、そしてその先の未来も、その事実は変わらず其処にあり続ける。
 そして、今此処にいない、記憶の中の友人に語りかけた。
(俺の最大の敵は他の誰でもなく……、ユーリ、お前になるかもしれない)
 記憶の中のユーリは、血溜まりを広げながら、マカロフを見ていた。
 そしてその瞳の中に、嘗て彼が見ていた親しげな色は、もう、なかった。





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