舞台は中東になりそうだった。
時間も資金も膨大に掛かる計画になるだろう。下準備というものも、綿密に行わなければならない。まずは小さな火からだ。それは遠くない未来、大きな火へと発展する。
彼らはそれに一役買っていることもあって、その未来が手に取るように分かった。計画はまだ実行されてはいないが、構図は既に出来上がっている。
元より、中東はその昔から落ち着くことのない戦火の坩堝のようなものだ。其処に介入する国の多さもまた、然り。
今は、嵐の前の静けさであった。
その束の間、マカロフは隠れ家の一室で愛用の拳銃の手入れをしていた。
中東にある彼らの拠点の一つ、人払いをしてある部屋は広く、必要最低限のものしか置かれていなかった。テーブルを囲んだソファ、それ以外には目立った家具も見出せない。
大体は応接間として用いられ、即ち、世界の薄暗い部分のやり取りをするための部屋だ。
日はまだ高かったが、しっかりと蓋をした窓のお陰で、室内の明かりはテーブルに置いたランプ一つだけが頼りだった。そんな薄暗い中でも、黙々と銃の手入れを進めていたマカロフは、不意に視線を外した。
彼の左肩を枕がわりに昼寝を決め込んだ、彼の友人、ユーリが何事か呟いた気がしたからだ。
「ユーリ?」
声を掛けてみるが、ユーリが目覚めた気配はない。恐らくは寝言だろうと、マカロフは再び視線を拳銃に戻した。分解したそれを組み立て、動作を確認し終わると、たちまち彼は手持ち無沙汰となる。
そうして、彼は再びユーリに視線を戻した。
マカロフとユーリはもう長いこと、互いを友人、あるいは相棒として生きてきた。
出会ったばかりの頃であれば、強引にでも叩き起こしていたかもしれないが、ユーリの昼寝癖という点において、マカロフはある程度、諦めていた。
昼寝が趣味で、いつどこでも眠ることが出来るという褒められたものではない特技を持ったその友人が、このような暗い部屋で暇を持て余したとなれば、こうなることは予想がついていた。途中までは言葉少なに会話をしていたはずだが、気がつけば、いつの間にか彼によりかかられる羽目になる。それも予想の範囲だった。
その悪癖についてどれだけ改善を促したところで、徒労である。マカロフは既にそれを学んでいた。ユーリはそれについて、耳を貸したふりをして同じことを繰り返す事も学習済みだった。
しかし、重要な局面においては弁えることの出来る男だということも分かっていた。それさえ出来れば、彼に文句はない。例えばユーリが日頃から、マカロフの背中や肩を占領して微睡む機会が多くても。
(この様子では今暫くは起きないな)
首を傾げてユーリの顔を覗き込む。口をぽっかりと開けて、実に緩んだ緊張感のない顔をしていた。
確かに此処でならば銃弾が飛んでくるなどという事はないが、とても兵士がする顔ではない。昼寝をするユーリはいつも決まってそんな顔をしている。それも今に始まったことではない。
そうして、彼はユーリを起こそうと手を擡げる前に、ふと、ユーリの膝元に煙草とオイルライターが転がっていることに気が付いて、それを拾い上げる。暫く考え、煙草の箱から一本取り出し咥えると、オイルライターの発火ドラムを回した。
「……?」
しかし、火花は散ったが、微かなオイルの匂いをさせるのみだった。再度指で強く回してみても、結果は変わらない。それから何度も試して漸く、仄かな火が灯った。彼は手早く、咥えた煙草に火を移してしまうと、オイルライターを閉じ、左肩を見遣った。
「不精者め」
短く、悪態を吐く。
ユーリの持ち物であるから、オイルを差しているのも勿論、ユーリの筈だ。銃の手入れなどは怠らない癖に、妙なところは抜けていたりするのが、ユーリだ。
煙草の紫煙を燻らせながら、手中でライターを弄んでいると、不意に、左肩から声がした。
「……禁煙、したんじゃないのか?」
それはまだ眠りを引き摺って譫言か寝言の区別もつかないような、柔らかな声だった。
「その筈だった。……自分が原因だという自覚はないのか?」
「起こせば良かっただろ」
「どの口が言うか。起きたなら早く退け」
喉の奥で笑って、ユーリは先ほどよりはしっかりとした、しかしまだ眠たげな声を出す。
「はいはい」
そして、漸く左肩が軽くなった。
伸びをして盛大に欠伸をしたユーリは、それからマカロフの膝元に放られていた煙草の箱を手に取った。
現地で適当に調達したらしい紙巻き煙草は、彼らにとって慣れた味ではなかったし、癖が強かったが、それでも無いよりはましだとユーリは笑っていたものだ。彼はそれから一本取り出して咥え、ライターを求めて首を巡らせた。
それを見て、マカロフは手元のオイルライターの蓋を指で弾いて、再度発火ドラムを回してみる。予想した通りに、少しの火花を散らすだけで、火はつかなかった。
「オイル切れだな」
「そうか……」
ユーリに手渡し、彼はそれから何度か発火ドラムを回してはみたが、やはり結果は変わらない。
薄暗い中、火花が散るのを眠たげな目でぼんやりと見ていたユーリは、突然何かを思いついたように顔を上げる。その視線に気が付いたマカロフは、訝しげに視線を上げてユーリを見ると、視線が噛み合った。
「……なんだ?」
「火ならあるじゃないか。それ、分けてくれ」
指を差して言われたことの意味が分からずに、マカロフは逡巡し、ユーリの指先が自身の口元を差してると知って瞠目する。そしてマカロフが何かを紡ぐより早く、煙草を口に咥えた儘、ユーリが顔を寄せた。
マカロフは思わずのけぞり、しかし、すぐに諦めが勝つ。恐らく何を言っても無駄だと。
それぞれの咥えた煙草の先が合わさり、マカロフは仕方なしに息を吸うと、煙草の先が一層赤く灯る。すると、ユーリの咥えた煙草にもその火が移って、新しい紫煙を昇らせた。
間近にユーリの顔があるその既視感に、ユーリが顔を離したと同時に、マカロフは小さく笑った。煙草にありついて満足げにしていたユーリは、それに気が付いて小首を傾げる。
「ん、どうした?」
「……いや、お前に会ったばかりの頃を思い出した」
「会ったばかりの頃?」
「憶えていないか?お前は、俺の目の色が左右違うと言って、いきなり顔を近づけてきた。何だコイツは、と思ったものだ」
「……ああ。そんなこともあったっけな」
「思えば、お前はあの時から、変わった奴だった」
ユーリと出会ったのは、まだ彼等が年端も行かぬ頃の、遠い昔のことだ。
生え抜きの超国家主義者だった彼等は、若くして出会い、そして、行動を共にしてきた。
ザカエフに連れられて引き合わされた彼らは、
『お前たちは、次代の担い手となるだろう。助け合い、互いを支えとするように』
と、告げられた言葉の通り、期待を一身に受けた存在であった。
初めて見たユーリは、自分と同じく少年から青年へ変わる位の曖昧な年頃に見えたが、引き結んだ唇に、強い眼光と硬い表情の所為か、その時は彼を少しばかり年上かとも思ったものだ。しかしユーリは次の瞬間、マカロフの目を見て、なにか特別なものを見つけたかのように目を瞠った。
『よろしく』
初めて短くそう言った声は思ったよりも低かったが、しかし柔らかい音だった。
差し出された手に応じながら、そこでユーリは初めて表情を和らげた。彼は笑うと、雰囲気が一変する。マカロフはその時ユーリを、変わった雰囲気を持つ、不思議な男だと思った。それを今でも、昨日のことのように思い出すことが出来る。
「あの時は驚いた。お前の目の色が左右違うから、不思議で仕方なかった」
「俺に言わせれば、不思議なのはお前のほうだ。出会って挨拶した次の瞬間に、不躾にも顔を寄せられるとは思わなかった」
先程の煙草の火移しよりものずっと至近距離に顔を寄せて、ありありと好奇心を示した少年と、まさかこのように親しくなるとは、嘗ての彼は想像していなかった。
マカロフは咥えていた煙草を手に取り、溜息を吐くと、ユーリは想いを巡らせるようにして遠くを見据え、やがてその視線が再び彼へと帰る。
「でも、懐かしいな。最初に会った時か」
そして卓上の灰皿に煙草を置くと、何を思ったか、マカロフとの距離を詰めて顔を寄せる。
「おい!」
思わず声を上げて身を引いたマカロフに人好きのする笑みで答えに変え、ユーリはごくごく近い距離から、マカロフの双眸を覗き込む。
「今でも、お前の眼は綺麗だと思う」
「それは昔聞いた。離れろ。近い」
肩を押しやると、ユーリはすんなりと従って見せたが、上機嫌と言った様子の表情は緩んだ儘だ。マカロフが眉を寄せる前に、ユーリは言葉を継いだ。
「実を言えば、あの時子供心に、色の違うその眼を通して見たら世界は違って見えるんじゃないかと思った」
「……何?」
「そう思って、羨ましかった。今でも憶えてる」
長い年月を置いて、照れたように昔を語る戦友の姿に、眩暈がした。その、包み隠さない愚直さが、距離を詰めることを赦した理由の一つなのだと言えるはずもなく、マカロフは視線を逸らして押し黙った。
「……」
「ヴォロージャ?」
そうして黙れば、訝しみ、耳慣れた愛称でもって、ユーリが彼を呼ぶ。
「……呆れた。そんな理由か」
「仕方ないだろう、子供だったんだ。だが、それ抜きでも友人になりたかったのは、本当だけどな」
漸く紡げたマカロフの抑揚のない言葉にも、ユーリは鷹揚に答えて、先程灰皿に置いた煙草を手に取り、灰を落としてから咥えて、ソファに身を沈める。皮が軋むような音を立てて、それが嫌に耳障りだと、頭の片隅で思った。
「言葉にすると難しいんだが、お前が目立ってたからか、そう思った。ザカエフが、お前には指導者としての才があるとか言っていたし……、その所為かもしれない」
訥々と話す内容を聞き、その言葉が切れるのを待って、マカロフもユーリに倣って、背もたれに身体を預ける。
「何がその所為、だ。お前は馴れ馴れしかった。最初から」
「そう、だったか?」
「他の奴にも馴れ馴れしかったが、ザカエフやヴィクトルにもというのは些か問題なのではないかと思ったものだ」
「そう感じただけだろ?ヴォロージャは最初、あんまり人を寄せ付けなかったからな」
「その呼び方もだ」
「ん?」
「人を勝手に愛称で呼び始めたのを忘れたか?それも会ってすぐだった」
ユーリは不思議そうに瞬いて、顎に手を当てて少し唸った。普段ユーリは、その強面から人に厳しい印象を抱かせがちだったが、そう思っている連中が今のユーリの表情を見たのなら、その印象を改めるに違いない。
マカロフのそんな思考を余所に、ユーリは一頻り唸ると、首を傾げた儘で呟く。
「そういえば、他にそう呼んでる奴って……」
「居ない。お前だけだ」
「……だよな?」
それを不思議がるのは、恐らくそう呼ばわっている当人だけだろうと、マカロフは思う。
「何で俺だけなんだろうな」
ぽつりと独り言のように、考え込んで零したユーリに、マカロフは深々と嘆息を吐いた。それに気が付いたユーリが、怪訝そうにマカロフに視線を移す。
「お前は愚かではないが、そう言うところは疎い」
「どういう意味だ?」
全く理解をしていないと言った表情を見れば分かる通り、皆まで説明する必要があるようだった。それはマカロフ自身も口にした以上、ある程度は予想していたところだ。
兵士として状況把握に長けている筈のユーリが、何故こうもこういう時に限って頭が働かないのかと、諦め半分と忌々しさ半分とで、マカロフは隣で疑問を顔一面に貼り付けている親友を睨め付けた。
自棄になりながら、半分以上残っていた煙草を灰皿へ押しつけて火を消し、ユーリから視線を逸らす。
「俺が、他の奴にそう呼ばせておくと思うのか」
「……」
隣で押し黙ったユーリは、黙考しているようで、マカロフはそれに続く言葉がありありと想像できた。彼は思わず眉間を抑えて、ユーリが疑問を吐き出す前に続ける。
「他の奴と、お前は違う。お前は……」
其処で言葉を切って、彼は珍しく、迷った。どの名称がユーリに相応しいのか、判じかねたのだ。
親友、戦友、それも、換えの効かないただ一人の。
それを素直に口に出すのは、癪だった。それは単純に、彼自身の矜持の問題だ。
「……お前が、赦した憶えもないのに、勝手にそれを定着させたんだ。お前を真似た他の連中だったら、一蹴すればそれで事足りた。諦めもせず、懲りた様子もなく食い下がったのがお前だけだった。そういうことだ」
結局、それが邪魔をして、口をついたのは別の言葉だった。
「そうだったか?」
「そうだったんだ」
結局、大事なことは告げずに濁したマカロフの様子を、ユーリが気付いた気配はない。逡巡するように視線を巡らせ、小さく、
「そうだったかな……」
もう一度呟いてから、ややあって、笑みを浮かべる。
「でも、思えば確かに、お前とは長い付き合いだな」
「……そうだな」
噛み締めるようにユーリが呟き、マカロフはそれに答えた。すると、ユーリは背を丸め、覗き込むようにマカロフを見上げる。
「だけどこの先も、例えば死ぬ時も、ヴォロージャの傍に居る。約束だ」
そうして、笑った。
そういう類の言葉を彼に寄せるのは、味方内ではユーリくらいなものだ。笑みで言葉に代えると、ユーリは一層笑みを深める。
それを目の当たりにして、彼の頭の中で揶揄を含んだ声がした。声は、彼等が慕う指導者の息子、ヴィクトルのものだ。
『マカロフ。お前、あいつに絆されたのか?』
それは同じく彼等が出会って間もない頃、ユーリが憚らず、マカロフを愛称で呼び始めて暫くしてからのことだった。ヴィクトルとは行動を同じくする事は未だに稀ではあったが、ある時、不意に呼び止められてそう訊ねられた事がある。
勿論、マカロフには何のことだか分からなかった。ヴィクトルが口にした、あいつ、という言葉が誰を指すのかも。
それが顔に出たのだろう、ヴィクトルは笑みを深めて、
『ユーリだよ。ユーリ』
と、付け加えた。
『ユーリがお前の事を、愛称で呼んでいた。ヴォロージャ、ってな。いつの間にそんなに仲良くなったんだ?』
『勘違いするな。あいつが勝手にそう呼んでるだけで、赦した覚えも、そう呼ばれて答えた事も一度もない』
揶揄が透けた癇に障る言い方に噛み付くように返し、それでその会話は終わったのだが、其処からヴィクトルと幾つか進行中の取引についての事務的な会話をこなしている最中に、マカロフに声がかかった。
『ヴォロージャ』
『何だ。後にしろ』
親しげな響きのあるその声に反射的にそう答えて、ふと、顔を上げる。それが、初めてその愛称での呼びかけに答えた時だった。
声のする方を見遣ると、驚いたような顔でユーリが佇立している。しかし、マカロフと眼が合うと、その顔が綻んだ。
『何だ。やっぱり、絆されてるじゃないか』
そして、視界の外でヴィクトルの声が、からかう風で耳に届いた。
迂闊にもその呼びかけに答えて仕舞った手前、否定することも出来ずに納得がいかなかったことも、昨日のことのように思い出すことが出来る。
しかし、当時頷くことが厭わしく思えたそれも、今となっては、胸中にすんなりと受け入れられる事実となっている。歳月を重ねるということは、つまりはそういうことなのかもしれない。
ユーリと過ごし、苦楽を共にしてきた日々を思えば、絆された、という言い方が正しいかは疑問だが、頷くにやぶさかではない。
ユーリが何を思っていたか、実際のところ、マカロフにも分からなかったし、問いただしたこともなかったが、彼はマカロフを愛称で呼び、距離を縮め、常に隣に在った。それが当然のこととなってしまうまで。たとえ、それを赦したことが一度たりともなかったとしても、
思えばマカロフとユーリは、表面上、全く性質が異なっていた。
ユーリは、昼行灯と周囲に揶揄されがちなことが多く、起きている時よりも寝ているときのほうが長いとまで言われていたし、マカロフ自身も、そう思っている。起きていたところで、やはり、何を考えているのかわからないくらいにはぼんやりとしている姿をよく見かけた。実際、そういうときのユーリは、ろくなことを考えていないことを、マカロフはよく知っている。そういうときのユーリの思考は、眠いだとか、腹が減っただとか、そのあたりが関の山だ。
ところが、場所が戦場へ移れば、その評価は一変する。
それはまさに、眠っていた獣が目覚めるかの如くであった。最初にマカロフが目にした時も、驚愕を覚えた。
普段の呑気さなどおくびにも出さず、戦闘において他の追随を許さない程の実力を持っていた。ザカエフが高く評価するのも、当然であった。
戦場においてユーリを見た者は尽く、その評価を改める。
しかし、当人はそんなことは気にした様子もなく、戦闘が終わるが早いか、いつもの飄々とした風に戻ってしまう。
捕らえ所のない男だったが、生粋の兵士であった。
どちらかと言えば策略を練るほうが得意だったマカロフにとっては、自分にない強靭さを持つユーリは、ザカエフが望んだ通りに、足りないものを補う存在だ。実際、彼はマカロフが望んだ通りの動きをするに欠かせない駒の一つであって、今や彼は、マカロフの隣にあるべき相棒だった。
誰に劣ることもない兵士としての素養を持ちながら、明け透けで愚直とも言える面を持つ、昔から変わらない不可思議な、彼の唯一無二。
親友、盟友、戦友、そのどれも釈然とせず、敢えて言葉にするならば、それは。
「……お前には、負ける」
「ん、何か言ったか?」
微かな声は、案の定、ユーリの耳には届かなかった。首を巡らせて問われ、マカロフは、口元に笑みを乗せながら、微かに呟く。今度は耳に届くような声量でもって。
「お前がそう言うのなら、ユーリ。死の際も共に居ると誓おう」
そう、それを言葉にするなら、
(死友、だ)
結局言葉にならないそのたった二文字の言葉は、薄暗い中、燻る紫煙の向こうでユーリの瞠目にとって変わった。
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