世界は表向き、平和を取り戻した。
 負った傷は癒えぬまま、欠けたものを埋めぬ儘、終戦というラベルが貼られた世界は、きっと明日も明後日も、微妙な均衡を保った儘続いていく。
 しかしその裏で、薄暗い地下に籠もりながら、その薄氷の上に揺れる世界を維持するべく、そして、そもそも戦禍の火蓋を切った元凶を葬り去らんと、牙を研いでいる者がいた。
 雑然とした作戦室には、幾つもの地図、写真、文字がひしめき、そして、銃器が散乱している。
 その中でも目を引いたのは、木箱に収められた、重装甲歩兵用の装備である。丁度ヘルメットに当たる部分に、何処にでもあるような付箋が貼り付けられていた。
 そこには、癖のある文字でこう書かれている。
『幸運を祈る』と。
 それを指で剥がしたプライスは、懐かしさを憶えるその癖字に目を細める。
「それが、お前の国からの支給品か?」
「そうだ」
 彼らは一応の形ではあるが、英国からの支援を受けることに成功した。戦時中、影に隠れるように本国と連絡を取っていたが、今は彼らが望めば、装備品の類は惜しまず提供される。
 書類上は死人、或いは国際指名手配犯。そんな不名誉な肩書は、終戦後、和平に向けた尽力を考慮されて白紙に戻った。ソープ・マクタビッシュと共に。
 シェパードが率いていたタクスフォースが壊滅状態である今、彼の者の暗躍を知る者は少ない。そして、その証拠を握るのは当時の当事者のみだ。唯一の生き証人であるプライスの扱いを、誰も疎かには出来なくなった。
 しかし先の大戦に対する、各国の思惑はどうあれ、事ここに至っては、大事なことは、ただ一つだけなのだ。
 使えるものを全て使い、各国からあらん限りの協力を取り付けて、マカロフの居場所を割り出させ、そして、黙認という形ではあるが、望み通りその始末を請け負うことになる。
 プライスと同じくして秘密を知るマカロフが居なくなるのは、西側諸国としても願ったり叶ったりということだろう。
 ホワイトボードには、明日行われる計画が書かれている。殆ど自殺行為であるそれは、しかし皮肉なことに、どこかマカロフが企てた空港襲撃と様相が似ていると、ユーリは思った。
 地上の退路を断って、掃いて捨てるほどの軍勢の中に、重装備で真正面から乗り込む。
 終戦を機にマカロフは一仕事終えた気になっているだろうことは明らかだ。しかし、彼が用意周到な男であることを、ユーリは知っている。ニコライがシステムに侵入して時間を稼ぐ間に、彼らはなんとしてでも、マカロフを追い詰めなければならない。
 分の悪い賭けだった。それだけ、必死さが覗える。
 しかし、ユーリはそれに乗ることに決めた。止める気などさらさら無かったと言ってもいい。
(俺が止めたところで、止まる男でもない)
 彼はたったもし一人であったとしても、歩みを止めないだろう。ただきっと、此処にソープがいたなら、彼はプライスに付き従っただろうと思う。異を唱えたかどうかも、分からない。
 プライスを一人で行かせる訳にはいかなかった。それは、ユーリを信じていたソープのためでもあったし、プライスのためでもあった。そして、ユーリ自身のためでもある。
 プライスがそうと決めたのであれば、きっと、これが最良の機会なのだろうと、ユーリはもう信じることが出来た。
「あれだけ居たタスクフォースが、今や三人とはな」
 手中の小さな付箋をそっと避け、プライスは重厚な装備に手をかける。自嘲気味のそれに滲む微かな愁傷を感じて、ユーリは彼を見た。きっと、思い浮かべた人は同じであっただろう。
「確かに締まらないな。だが、今更不足ではないだろう?」
 ユーリは軽機関銃に手をかけて、低く問うた。
 プライスは不敵に笑うと、殺意に目を光らせる。
「充分だ」
 それに頷いて、ユーリは二対の重装甲歩兵装備の内、もう一つのヘルメットを持ち上げる。予想以上に重たいそれを退かすと、胴の装備の中に紛れて何か妙な箱を見つけた。
「……?」
 訝しんで取り上げる。細長い木製の、何も書かれていない箱であったが、何か入っていると思しき重さをしている。
 ユーリには、装備を送ってきたイギリスに知り合いなどいない。そうなれば、答えは一つだった。
「プライス。おそらく、お前宛だろう」
 言って、持ち上げたそれを手渡す。
 プライスは怪訝そうに片眉を上げて、それを受け取った。木箱の蓋をあけると、簡素な木箱に似合わぬ仰々しさで、一本のボトルが横たわっていた。
 ユーリはそれを見て小首を傾げる。それは、酒のように見えた。
「……餞別、と言ったところか」
 プライスがふと相好を崩して呟いた言葉に、ユーリは思わず顔を顰める。
「おい、縁起でもないことを言うな」
「お前もどうだ?いい酒だぞ」
 ユーリの諫言には答えず、プライスは棚から小さなショットグラスを取り出すと、雑然としたテーブルの上に置いた。
 簡素な椅子に腰を落ち着けたプライスに倣って、ユーリも隣に腰を下ろす。
 プライスは敷布に鎮座するようにして収められたボトルを躊躇なく取り出す。ユーリには、見慣れない銘柄だった。
「それは?」
「スコッチウィスキーだな」
「お前の嘗ての上官とかいう男からか?」
「そうだ。二十二年前、ザカエフを仕留め残った時に、俺の隣にいた男だな。お前も確か、その場に居たのだろう?」
「……そうだな」
 真っ先に過ったのは、運転席でユーリのほうを振り返る男の顔だ。一拍、返答が遅れる。
「姿こそ見なかったが、プライスとの縁はそんなところからか」
「顔も名も知らん状態で、縁も何もあるまい」
「それもそうか」
 息を吐くように笑みを漏らすと、プライスもそれに、苦笑のような笑みで応えた。
 彼は何処から取り出したのか、コルクスクリューで器用に蓋を取り去ると、ショットグラスへボトルを傾ける。
 小さなグラスには、薄い琥珀色が満ちた。
 互いに何も言わずに杯を合わせ、同時に飲み干す。
 余り馴染みのない味だったが、鼻に抜ける果実のような香と、刺すようなアルコールの刺激の中に残るナッツのような甘さ。悪くない佳酒であった。
 それを餞別と、プライスは言った。
 ユーリは隣に座るプライスを見た。彼は至極、落ち着いているように見えた。そもそも、この男がそうでないことなど、殆どないと言えたが。
「……お前は、全てが終わったらどうする気だ?」
 何故、未来の話などしたのか、ユーリ自身にもわからなかった。
 ただ、まるで先がないような語調と共にボトルを眺めたプライスが気に掛かった。しかし、ユーリ自身、それは決して他人事ではない。
(自分でも、先のことなど、思い描けないのに?)
 ユーリの唐突な問いに、プライスは顔を上げた。
「先のことなどわからん。もしも、明日以降があるなら……」
 其処で答えは途切れた。視線が遠くに泳いで、しかしすぐに、彼は思い直したかのように、緩く首を振る。
「いや。まず先に、あの狂人を木に吊るすほうが先だ。全て、それからだ」
 言って、彼は懐から葉巻を取り出して、火をつける。独特の香がして、ユーリはぼんやりと、その火を見つめた。
 プライスはそれを咥えたまま、もう一度、ボトルを手にして、双方のグラスに酒を注ぎ込む。
「そういう、お前はどうなんだ?」
 まさか問いを返されるとは思わず、ユーリはショットグラスを持ったまま硬直した。
「……俺は」
 視線が落ちる。ユーリの戸惑う内心を移し込んだように、小さなグラスの琥珀は、ゆらゆらとゆっくり揺れていた。
 この先、マカロフを止めて、そして彼がいない世界を生きる自分を、どうしても思い描けなかった。其処に立って、果たして、何を思うだろう。
 一度は共に在り、友のためであれば、命すら惜しくなかった。嘗て遠い日に、死ぬ時も一緒だと誓った。あの約束は、何処に行くのだろう。
「……分からない……」
 途方に暮れたような呟きは、間違いなく本心だった。
「ただ、明日、望む通りに全てが終わるなら、その先がなくとも構わない」
「俺とて同じだ。これが最後だと思ったことなど、今が初めてではないし、これからがあるのだとすれば、これからもそうだろう」
 その言葉は、数多の戦場をくぐり抜けて来たのであろう、プライスらしい言葉だった。
「そして今回は、お前とは獲物の取り合いになるわけだが」
 プライスは冗談を言うように笑みを含めてユーリを伺う。珍しい、と感じて、すぐに思い直した。プライスはよく冗談を言っていた。ソープがまだ生きていた頃の話だ。つい最近ことであるはずなのに、随分と遠く感じる。
 ユーリはそれに応えて、口角を上げた。
「一応言っておくが、お前にも渡すつもりはない」
「では、レースというわけだな」
 ユーリは瞠目した。紫煙を吐いたその姿に、全く似ていない筈の、ソープの姿が重なる。
「お前は、ソープと同じ事を言う」
 長らく口にすることが憚られた名だった。あの日失った、プライスの大事な友であり、家族であった人。それが、自然と口をついた。
 プライスはほんの少しだけ、動きを止め、目を伏せた。そして、ほんの少し、口元に笑みを浮かべる。
 ユーリはあの日から、マカロフに繋がる細い糸を辿るべく、プライスの下が尤もそれに近いと確信して此処に来た。
 それが正しかったかどうか、全て、今に分かる。
 ただ、誤算であった点があった。ただ、その手段として利用するつもりだった者達に助けられ、間違いなく、情を抱いたことだ。
 自らを犠牲にして、他者に未来を与える者達。その背を見てきた。
 ユーリは、改めて、プライスを見た。音に乗せたことさえないが、もう、友だと思えるその人を。
 彼に、この先があれば良い。
 きっとあの日、先に旅立った彼はそう願うだろうと、分かっている。そして、自分の未来は描けなくとも、今、隣に居る友の未来を願えるのは、酷く不思議な感覚であった。
 琥珀の液体が揺れる。
 プライスは多く語らないが、きっとこの手中にある酒の送り主も、彼の帰りを待っているに違いなかった。
 ユーリは深く瞑目し、静かに、祈るように、プライスにこの先があるようにと、故郷に戻ることが出来るようにと、幸福を願った。





<<