窓を塞いだその部屋は、まだ夕刻だというのに薄暗い。
 打ち棄てられた古い屋敷は、床を踏めば耳障りな音さえ立てた。薄く埃の積もる床に、水が滴る。
 滴る水をタオルで拭って散らすと、一緒に霞掛かったような思考が、僅かばかり、晴れた気がする。
 着替えにと用意していた上着は億劫で袖を通す気になれず、手にしたものの、結局視界の外に放り投げる事になった。其の儘、タオルを首に掛けて、ユーリは近くの古びた椅子に腰を下ろした。
 殆ど背で座りながら、彼はテーブルの上に放った拳銃を手に取った。それは慣れた感触がする。銃床と、その背を撫ぜると、やっと人心地ついた。
 其の儘ぼんやりと彼は掌でそれを弄び、ふと思い出したように、鳩尾を探った。まだ柔い傷の感触と、痛みを感じて、彼は銃を握りしめる。それは聖者が祈りに縋る姿に似ていた。
 反超国家主義派に身を寄せてから、暫く経った。一度襲撃を受け、今は西側から来た兵士の片割れの回復を待ちつつ、潜伏している状態だった。
 ユーリ自身も、襲撃の際に傷が開き、暫くベッドから動けない状態であった。寝ているだけの日々は鬱々としてしまい、身体を動かそうとして、余計回復が遅れることになってしまった。満足に動けるようになったのは、ごく最近のことだ。
 先ほど、昔熟していた訓練の内容を踏襲して身体を動かしたところ、少しも思っていた通りには動けなかった。的は外さなかったが、すっかり体力は落ちてしまったようだ。これから、取り戻して行かなければならない。
 彼には、果たさねばならない目的があるのだから。
 空にしてしまった銃弾を足そうと、テーブルにいくつも転がっている弾倉に手を伸ばしたとき、廊下から何か音がすることに気がついた。
 足音と呼ぶには些か拙く、身体を引き摺るような音だった。それだけで、こちらに向かっている者が誰であるのか知れた。この廃屋に身を寄せる者で、そんな動き方しか出来ない者は、一人しかいない。ユーリは僅かに逡巡し、弾倉に掛けていた手を離す。
 音が近づくと、やはりモヒカン頭のすでに見知った顔が現れた。
 この古い隠れ家には、そもそも扉などという上等なものが備わっていない部屋も多い。ユーリが普段使っているこの部屋も、例に漏れずそうであった。もとより、風雨が凌げて、敵から身を隠せればいいと頓着していなかったが、訪問者があれば話は別であった。
 身じろぎすらせずにいたつもりだったが、彼――名をソープと言った――は、ユーリを見つけてしまったらしい。部屋の中を見、そうして、目が合った。
「ユーリ」
 呼びかけられて、ユーリは仕方なく、片手を挙げて応じる。正直に言えば、戸惑っていた。
 ユーリは長いこと、彼ら、西側諸国の人間と敵対関係にあった。たとえ、超国家主義派から離れたとは言え、肌に刻んだ入れ墨よりも深く身についた嫌悪感や警戒心は、そう簡単には消えない。西側の兵士というだけで、腹に据えかねるものがある。彼らには、ユーリは来歴を話して居なかったが、彼らがユーリの背景を知っていたら同じように思うだろう。
 もとより、彼らにはマカロフにたどり着くためだけに、利用しているに過ぎない。馴れ合いは不要だった。
 ソープが軽い挨拶だけで通り過ぎてくれることを願ったが、祈りは虚しく、彼は大儀そうに戸口に身体を預ける。
「休んでいた方がいいのではないか?」
 その動作を見て、牽制したユーリの言葉には、一切の抑揚を欠いていた。
 実際、ソープの身体にはまだ分厚い包帯が巻かれていたし、明かりをつけず、窓を塞いだ薄暗い部屋の中からでもそれと分かる程度には、顔色もよくない。
 歓迎されていないと伝わったはずだが、ソープは僅かな躊躇と共に、
「少し、話がしたい」
 と、申し出た。
 そして、許可を待たず、室内に足を踏み入れる。
 ユーリは困惑し、どうするべきかと言葉を探す間に、ソープはさっさと手近な椅子を引き寄せて、対面に居座ってしまった。
 ユーリは努めて表情に出さないようにしたが、会話をしようにも、彼、ソープについて、ユーリが知っていることは本当に少ない。あるとすれば、名前くらいだ。勿論、それは本名でさえないだろう。皆が一様に彼をそう呼ぶものだから、訊く機会も逸してしまっていた。
(そもそも西側の人間と、一体何を話せと言うんだ?)
 内心吐き捨てたユーリの心情などソープが知る由もなく、まして話題など見つかるはずもない。重たい沈黙が続くかに思えたが、ソープはそうではなかったようだ。
「……お前は」
 その呟きは、ぽつりと零すような、それでいてしっかりとした響きだった。
「銃を持つと、随分、雰囲気が変わるんだな」
「見ていたのか」
 ソープの視線を追うと、彼は、ユーリの手元にある銃を見ていた。だがそれは、警戒をしているという様子ではない。
「ああ。お前のように……、銃を持つと雰囲気が変わる奴を知ってる」
 懐かしむような、惜しむようなその言葉の響き。ユーリは思わず顔を上げ、対面に座っているソープを見据えた。
「ソイツは、俺に似ているのか?」
 考えるより先に、言葉が口をついた。
「……いや、似てるのは其処だけだ。アイツは、何というか、普段は脳天気なほど明るくて……」
 廃材で塞いだ窓の隙間から、伸びた西日が、彼らの足下を撫でていた。古びた家屋の埃がそれを浮き立たせて、光の筋を作る。その光を追うようにして、ソープの視線が窓の方へ、何処か遠くを泳いだ。
 彼は、ユーリに似ているという者を、過去形として語らなかった。だがその目線が、すでにその者が何処を探しても居ないことを、教えている。
 きっと彼の目線は、何処も捕らえてない。目蓋を閉じれば焼き付いて居るであろう、亡くした誰かを見ているのだと分かった。
 その言い様のない感情を、それを悼む言葉の響きも、ユーリはよく知ってる。
 まるで、いつか友を亡くした自分を見るようだ。
 それは、ユーリにとって鮮烈な衝撃であった。
 ザカエフ、ヴィクトル、共に戦場に出て、いつの間にか欠けていく仲間達。
 きっと、それを奪った敵には、目の前のソープも含まれていたに違いないと分かっていて、それでも、今目の前に居る彼は、どうしようもなく自分に似ている。
 西側の。敵国の。いつか憎んだはずの。それらの何重にもなった経緯や感情は其処まで簡単ではないと、あれほど思っていたはずなのに、目の前に座っている傷だらけの人間が、自分と同じただの一個人であることを、唐突に理解した。
 傷を負い、無くしたものを悲しみ、そして彼はおそらく、この先も戦い続ける。様々な理由を抱えて。
 ユーリと、同じように。
「懐かしいか?」
 次に沸いたのは、親しみであった。ソープが語りたかったであろう、言葉の続きを足す程度には。
 ユーリの言葉から、険が取れたのが分かったのだろう。ソープは視線を戻すと、眉を上げてから、何を口走っていたのかようやく理解したような顔をした。
 ほんの寸瞬、ばつの悪そうな顔をしたかと思えば、彼はふと息を吐いた。全くそれらしくはなかったが、なんとなく、それは笑おうとしたのだと分かった。
「いや、すまない。こんな話をしたかったわけじゃなかった。今更なんだが、前に助けて貰った礼を言いそびれていたことに気づいて」
「必要ない。目的が同じである以上、貸し借りなど数えても意味が無い」
「お前は、マカロフを追っているそうだな。ニコライから聞いた」
「彼は随分お喋りなようだ」
「まあ、気はいい奴だが……、あいつより饒舌なロシア人には会ったことはないな」
「確かに」
「何故マカロフを?」
 親しみは、ほんの僅かに、ユーリを饒舌にした。
 そうして今度こそ手を伸べ、テーブルに幾つも散らばった弾倉を手に取る。滑るように、手に持っていた拳銃にそれを填め込み、強く、強く握りしめた。
「自分の手で殺すためだ。他の誰の手でもなく、俺の手で」
 その殺意を、ソープがどう捉えたのかは分からない。ユーリにとってそれはどうでもいいことであった。
「奴を狙ってる者は多いぞ?」
「例えばお前達か?」
「俺達連隊やアメリカのデルタフォースあたりもそうだろう。まるでレースだな」
 敵の多い男だ。改めてそう実感する。
 しかし、マカロフは多くを敵にしながら、狡猾に、生き残る術を知っている。どれだけ追われようと、どれだけの者を敵にしようと、マカロフならば、生き残るだろう。
 ただ、ユーリはそのレースで勝ち馬に乗らなければならない。
 数ある中で、一番のダークホースは、間違いなくユーリが身を寄せた場所であるという確信があった。
「マカロフにたどり着くという意味では、お前達が尤もそれに近い。いや、お前達というよりは、プライスが、というべきか」
 その確信を言葉に乗せる。すると、ソープは意外だと言いたげに目を瞠った。
「何故?」
 問われ、しかし、ユーリは微かに嗤って答える。
「……勘だ」
 その短い言葉で、誤魔化せたとは思わない。ただ、追求されたとしても、ユーリはその理由を話したりはしないだろう。
 この世で、マカロフに近いのはアメリカ軍でもなければ、イギリス軍でもない、プライス、あの男だ。
 敵として接した期間と、傍で実際に接した期間で、ユーリはプライスに対して一定の評価を置いている。
 そして、こう感じていた。
 プライスとマカロフは、どこか似ていると。
 それは最もマカロフの傍に居たユーリであるから、抱ける確信であった。故に、誰に話すことも出来ない。
 プライスはマカロフを追うことを、死ぬまで諦めないだろう。そして、手段も選ばないだろう。
 マカロフが、目的を果たすときにそうであるように。
「だが、この勘は外れない」
 予言めいた言葉に、ソープは注意深く、ユーリを見ていた。
 しかし、その時、廊下の方から荒い足音が聞こえた。怒りに任せて踏みしめるような足音。廃屋の床が抜けないか不安になるほどのそれは、確実に近づいてきている。
 ソープは露骨に顔を顰め、肩越しに振り返った。
 ユーリはそんなソープを一瞥してから、やはり、扉のない戸口に視線を動かす。保身のため、手に持った銃はテーブルにそっと置いた。
「ソープ!」
 いくらもしないうちに、予想通り、プライスが怒鳴り込んできた。
「お前は性懲りも無く……。傷が塞がりもせんうちに動き回るなと何回言わせる気だ?」
 地を這うような声と共に踏み入って、引きずり倒す勢いでソープの腕を掴む。
 対して、ソープはうんざりとした表情を浮かべたが、抵抗はする気が無いようだ。素直に椅子から立ち上がる。
「もう塞がってる」
「無理矢理縫合糸を引っこ抜くのを塞がったとは言わん。何回血まみれになる気だ、お前は。いいから戻れ。手間を掛けさせるな」
 凄まじい剣幕だったが、要は、ソープが心配なのだと透けて見えて、ユーリは微かに笑ってしまった。
 しかしそれは失敗だったようで、プライスの矛先はユーリに向かった。
「お前もだ、ユーリ。揃って酷い顔色だぞ、この病人共」
 鋭い視線が刺さって、ユーリは思わずのけぞる。
「俺の方は本当に塞がってる」
「傷の方を言ってるのではない。お前、ろくに眠っていないだろう」
 見透かすような指摘に、虚を突かれて、ユーリは硬直してしまった。何故、と疑問が口をつかなかったのが不思議なくらいだ。勿論、口には出なかっただけで、表情には出てしまったらしい。
 プライスは鼻で嗤うと、懐から小さなケースを取り出し、ユーリに投げて寄越した。
 過たず受け取ると、片手の掌ですっぽりと覆えてしまいそうな、小さなアルミのケースだ。プライスとそれを見比べ、開いてみる。中には、いくつかの錠剤が入っていた。
「連隊御用達のやつだ。必要なら使え。いくらか眠れるはずだ。この馬鹿が回復するまでに、お前ももっとマシになっておけ」
 逡巡しつつ、やがてユーリはそれを両手で包むと、ゆっくりと頷いた。
「……感謝する」
 ユーリの言葉を聞いてから、プライスはソープに肩を貸し、今度こそ彼を引き摺っていこうとした。しかし、唐突に思い出して、ユーリはその背に声を掛ける。
「ソープ」
 すると、渋々プライスに付き従っていこうとした、彼が、首を巡らせてユーリを見た。
「お前の名をまだ聞いてない」
 そんなことを知ってどうするのかと、思わなくもなかったが、この機を逃すと永遠に知らない儘である気がした。ソープはといえば、不思議そうに瞬いて、やがて口角を上げた。
「ジョンだ。ジョン・マクタビッシュ」
「……マクタビッシュ?」
 答えを聞いて、思わずユーリは、思わず声に疑問を乗せて、その隣にいるプライスに視線を移した。
 ユーリの怪訝そうな視線を受けて、プライスは眉を上げ、次いで苦り切った顔で告げる。
「言っておくが、俺にこんなデカい息子はおらん」
「はあ?」
 それを聞いて、全く同じ表情で顔を歪めたのはソープだった。
「ああ、道理で。年も合わないし、そもそも似てないなと思っていたんだ」
 ユーリはといえば、その返答を聞いてようやく腑に落ちたのか、一つ頷く。
「なんだ、どういうことだ?誰が、誰の息子だって?」
「お前がくたばりかけていた時に、ニコライがふざけて、コイツにお前を俺の息子だと紹介していただけだ」
 その説明を聞いて、ユーリは賢明にも口を噤んだ。
 事実と違うが、言わない方がいいのだろう。
 プライスは生死の境を彷徨っていたソープの傍で、殆どの時間費やしていた。峠を越え、幸いにも持ち直し、容態が安定しても彼が目覚めるまで、それが変わることはなかった。
 余り休んでいないようだと心配したニコライが、揶揄を含めて、
『心配症がすぎるぞ、パパ』
 と、言っていたのを、たまたまユーリが聞いていただけの話だった。
 親子とまではいかないまでも、戦友は家族とそう変わりない。目を離した隙に何かあってはと、心配になるのも理解できた。
 プライスと同じ立場であれば、ユーリも同じことをしただろう。
 そこで、ユーリはほんの僅かに苦笑を浮かべてて、腹部の傷を探る。
(こんな時でも、まだ、思い出すのはお前の顔か……)
 言い合いながら部屋を出て行くソープとプライスを、彼は何か眩しいものでも見るかのようにして、目を細める。
 今までであれば、警戒と共に眺めたであろうが、今はもう違う。
 胸中に沸いたのは、微かな、羨望であった。
 目蓋の裏に浮かぶ影を振り払い、支え合って出て行くその背を、こんな風に穏やかに見られる日が来ると、まだ若く盲目的だった過去の自分が知ったら、どう思うだろう。きっと信じたりはしないだろうと思うと、なんだか可笑しかった。
 今はまだ分からないが、憎悪さえ抱いたと思っていたそれが、いつか友になり得る日がくるかもしれない。
 ユーリはプライスから受け取ったケースを開き、その中から一つ、錠剤を取り出す。慎重に取り出して、躊躇せずに嚥下した。
 ふと視線を動かした先、西日はその日差しを和らげ、もうすぐ夜が来る。ユーリは椅子の背もたれに頭を乗せ、天井を仰いだ。そうして、夢を見ないように祈った。見るならば、せめて、優しくない夢がいい。
 彼は躍起になって、記憶から蘇る友の影を振り払いながら、祈るように眠りを待っていた。





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