出発前の輸送機の片隅。座り込んだローチの足下に転がった端末から映し出される遠いアメリカの地はまさに、地獄の釜を開けたような有様であった。
血と鉄、炎と煙に巻かれ、怒号が飛び交う。
とはいえ、彼には見慣れた地獄でもあった。惨憺たる有様にも、眉一つ動かさず、それを見るともなしに、広げた銃のパーツを丁寧に組み立てていく。
ニュースキャスターが深刻ぶって語るには、既に首都は陥落したらしい。逼迫した状況である事は間違いなかった。
ローチは途中まで組み立てたライフルを膝の上に置くと、すぐ傍に置いた儘であったカップを手に取る。
「世界がこんなんじゃ、優雅にイレブンジスティーは疎か、スコッチで一杯、なんて夢のまた夢なのが兵士の辛いところだな」
「同感だ」
其処に、思わぬ相槌が返る。
ローチが声のした方を仰ぐより早く、手中のカップが奪い取られた。
「……温い」
悪びれた様子もなくカップの中身を含んで顔を顰めたのは、プライスであった。見慣れた連隊の隊服に身を包み直した彼は、ローチの見知った嘗ての姿をしている。
上から下までそれを眺めて、相好を崩した。
「戦線復帰、ですね。おめでとうございます、プライス大尉」
「あまりめでたくはないがな」
「そうですか?牢獄じゃ温いミルクティーも望めませんよ」
「成る程。一理ある」
ローチの軽口に、プライスは手元のカップに視線を落としてから、もう一口、口に含んだ。しかし、やはり気に入らなかったのか、渋面を浮かべた。
僅か二口で見放されたそれは、持ち主の方にややぞんざいに突き返される。ローチはそれを受け取りながら、苦笑を浮かべつつ、口に運んだ。
確かに、プライスが指摘した通りに熱が逃げてしまっているそれは、実を言えば、ローチにとっては味など二の次なのだ。
弾丸の飛んでこない場所で、ごく普通の生活に基づく行為をするというのは、短い作戦の合間に行う小休止に気を抜く為の、儀式めいた行動でしかない。ただの習慣とも言えた。勿論、それは淹れ立ての紅茶や、冷えたエールであれば言うことは無いが、必ずしもそうでなくてもいいのだった。
レーションに付随していたミルクティーを飲み干すと、ローチはもう一度、プライスを仰ぎ見る。
「それで、すぐに作戦参加できそうなんですか?」
「本国では書類上死人だった訳だからな。その辺は事後報告だ。まあ、投獄で鈍っていなければ楽に復帰に異論などなかろうさ」
プライスを見、タフな人だと思う。
あの収容所は誰でも心が折れそうな程の、劣悪な環境下だったはずだ。しかし、今のプライスの様子を見れば、彼が決して諦めず、あの地獄からの脱出の機会を待っていたのだろうとわかる。
まして、その機会にローチは、彼に殴り倒されたのだから。
「鈍ってる人間の一撃の重さじゃなかったんですけど?」
「お前は現役なのだから、あれくらい躱せるようでなくてはな。軍曹」
「ええー!?」
ローチは、呆れたような悲鳴を上げる。書類上で彼を判じることになる者は、プライスの一撃の重さを是が非でも一度受けてから物を語るべきである。ローチは後に落石に巻き込まれたが、そちらよりも余程、プライスからの一撃の方が堪えていた。
戦くローチを見下ろして、プライスは何でもないことのように続ける。
「心配は要らない。後ろ盾もある」
「そんなモンなくても、プライス大尉の復帰が許されないとなったら、マクタビッシュ大尉が猛抗議しますよ」
輸送機に背を預け、腕を組んだプライスは、短い嘆息と共に、苦り切った顔で呟いた。
「……お前は、ソープを良く知ってるようだ」
「勿論です。で、マクタビッシュ大尉は一緒じゃなかったんですか?」
「視線が鬱陶しくてな。撒いてきたところだ」
素っ気ない言葉に、ローチは項垂れ、長嘆を吐く。
「良いじゃないですか視線くらい。可哀想に。大尉がどれだけ心配してたと思ってるんですか」
「知らん」
しかし、プライスの返答はにべもない。
あの情に厚いマクタビッシュが一層哀れに思えて、ローチは緩く首を振りながら続けた。
「ずっと気に病んでましたよ。俺らの中で、誰よりも、貴方を諦められなかった筈です。あんな中で感動の再会とは行かなかったんですから、積もる話だってあるでしょうに」
ローチにとってマクタビッシュがそうであるように、マクタビッシュにとってのプライスは、きっと憧憬を一点に集めたような人なのだろう。見ていれば、自ずとそうだと知れた。
そして戦闘の中で失ったと思われたその人が、実は生きており、そして突然目の前に現れたら。自身であれば、何度だって確かめたいと思うだろう。当人が逃げ出したくなるほど目で追ってしまうというのは、とても良く解った。
ここはマクタビッシュの部下として、空白の埋め合わせをするべきである。
ローチは謎の使命感とともに、決然と顔を上げた。
「わかりました。じゃあ、不肖この俺が、プライス大尉が居なくなった時、どれだけ大変だったかと言うことと、その後のマクタビッシュ大尉が頼りになる存在だったかを、ご説明しましょう」
「今、そんな余裕があると思うか、軍曹」
「なくても、マクタビッシュ大尉の為に、是が非でも聞いていただきます」
ローチの真剣な眼差しを見、プライスが逃亡先を誤ったことを悟ったのは言うまでもない。そこからはローチの独壇場であった。プライスが思わず閉口するほどの、である。
曰く、マクタビッシュはプライスを失った後、部下の前では努めて平静であったこと。しかし時折、物憂げに、プライスから預かった銃の手入れに時間を費やしていたこと。
誰よりも過酷なスケジュールで訓練をこなしていたこと。
ローチと一緒になって、訓練に勤しんだ折に、火気庫の弾薬を空にする気かと火気係に渋い顔をされたこと。
共に作戦を熟す中で、マクタビッシュが決して味方を疎かにせず、頼もしい指揮官であったかということ。
「それで、えーっと、他には……」
滔々と語っていたローチが漸く言葉を探し出す頃になると、プライスの加えていた葉巻は二本目に突入するところであった。それを気にする様子もなく、ローチは上着を漁って小さな日記を取り出す。
「えーっと、確か一年前くらいの作戦のとき、大尉が凄くて」
その頁を捲り出した段になって漸く、プライスはうんざりと声を上げた。
「分かった。もういい」
「ええ?待ってください。まだ全然」
「お前がどれだけソープを慕っているかは、よくわかった」
「え、そういう話じゃなかったんですけど?」
「どの口が言うか。それは日記か?妙なところまで真似おって」
「これはリスペクトです」
きっぱりと断言して、ローチは日記を懐に仕舞う。
「おわかりいただけました?」
「恥ずかしげもなく、よくもまあ語ったものだ」
「言葉を惜しむなんて、贅沢なこと、俺には無理です」
ふと、笑みを零しながらローチは呟いた。
虚を衝かれたように、プライスは目を瞠る。その時、プライスが何を思ったか、ローチは知らない。ただ、どこか遠くを見るような目が、ふらりと中空を泳ぐ。
そうして、それが機であると察して、促す。
「戻ってあげてくださいよ、大尉」
「……ふむ」
彼が不在であったその空白を少しでも埋められればと思ったのは、本当だった。けれども、その足が、マクタビッシュのほうへ向けばいいのにと思ったのも本当だった。
「確かに。お前の長話よりは、鬱陶しい目線のほうがまだマシだな」
果たして、それは見事に成功を納める。
「ご所望とあれば、まだまだ話せますよ!」
「遠慮しておこう。ではな」
背を浮かし、葉巻を咥え直してプライスが去っていくのを、ローチは止めなかった。立てた膝に頬杖をついて、しばらくその背を目で追っていたが、ややあって、湧き上がった笑みをかみ殺す。
「……素直じゃないなあ」
それでも、思わずと行った風に、呟きが漏れた。そうして彼は、先程のプライスの様子を思い返す。
ローチが率直な言葉で言い連ねる日々の出来事を聴きながら、プライスは早々に葉巻を咥え初めた。語りつつ、退屈だったかと危惧したが、すぐにそれは誤りであると気づいた。それは、同じく素直に言葉に表したとき、マクタビッシュが含羞を誤魔化す時にする仕草とそっくりであったからだ。
そして、プライスは言葉にこそしなかったが、ローチがマクタビッシュについて語る間、渋面が徐々に和らぎ、最後の方は何処か嬉しそうであった。
あとでマクタビッシュには、こっそりとその様子を教えよう。
ローチはそんなふうに考えてから、鼻歌混じりに体勢を戻して、片膝に乗せたまま途中だったライフルを組み立てて行った。
*** *** ***
「逃げられましたね」
ゴーストの含みのある笑い声。其処に揶揄を感じ取り、何を指した言葉であるかを察して、マクタビッシュは眉を吊り上げた。
「うるさいぞ」
僅かに声を低めてみたが、彼の副官には効果がないようだ。肩を震わせて笑いながら、
「嬉しいのはわかりますが、目に見えてそわそわし過ぎだ。しっかりしてくださいよ」
と、続ける。
その諫言に、マクタビッシュは諦めて嘆息した。
「そんなにわかりやすいか?」
「当人が困って逃げ出す程度には。平時のローチくらい顔に出てる」
「そんなにか」
「ひどいもんですよ」
そんなマクタビッシュの様子が、ゴーストには面白いらしい。
自覚はないわけではなかった。マクタビッシュは観念して中空を見上げる。
「実を言うと、浮かれている」
「でしょうね」
あっさりと肯定したゴーストは、傍らにおいてあったマクタビッシュの葉巻のケースを手に取ると、その中から一本、彼に向けて差し出した。言外にも落ち着けと諭されて、不承不承受け取る。
「火もつけて差し上げましょうか?」
「結構だ」
わざとらしい申し出を断って、懐からマッチを取り出し、火をつける。
そうしながらふと、今口にしたそれも上官に倣うように始めたものだと気がついてしまい、途端に気恥ずかしくなってしまう。眉を寄せ、指で弄んだマクタビッシュの心情を知ってか知らずか、同じように紙巻き煙草を咥えて、ゴーストは笑う。
「良かったじゃないですか」
今度は、揶揄うような響きはなかった。
「こんな奇跡のような再会は、滅多にない。 ……良かったですね」
「……ああ」
そこにある祝福というよりは、羨望のような、零れるような響きのそれに、マクタビッシュは深く頷いた。
長いこと連隊で任務に就いていれば、仲間を失うことなど珍しくない。世界が今日のように、大禍に見舞われれば尚更だ。そして、そのような経験をしたことがあれば、誰であろうと思うであろう。
彼が、生きていれば、と。
大抵、その祈りを聞き届ける者はいない。
マクタビッシュ自身もそうであった。諦められず、何度も取り戻そうと試みた。周囲に諫められ、支えられ、漸くその喪失を認めたのだった。
ところが、そんな過程はまるでなかったことのように、今、あのとき取り戻そうとした人が目の前に戻ってきた。
まさに、奇跡のようだった。
「まあ、プライスは地獄に行っても送り返されそうな人だからな」
「先に逝ってる部下にでも蹴っ飛ばされて、帰って来たんじゃないですか」
冗談めかした言葉に重ねられた言葉には、思い当たる顔があった。口の悪い、プライスの副官だ。なるほど、プライスが地獄にでも来ようものなら、散々文句を言って蹴飛ばしそうである。
「だとしたらギャズだな。あり得る」
「泣ける話だ。じゃあ俺が先に死んだら、アンタのことは俺が蹴っ飛ばしてやりますよ」
「お前の蹴りなら確かに死ぬに死ねんな。俺が先なら、お前を投げ飛ばしてやろう」
「ありがたくて涙が出ますよ、クソッタレ」
ゴーストが吐き捨てるのを聞いて、マクタビッシュは思わず声を上げて笑った。ゴーストも、喉を鳴らして笑い出す。
一頻り笑って、マクタビッシュは殆ど手つかずの葉巻を投げ捨てた。
「さて、お喋りはここまでにして、準備するぞ。上にいるだけの俺より、お前達のほうが準備も多い」
「声が弾んでますよ、マクタビッシュ? 指揮権を渡すなんて事実上の降格だってのに、そんな喜んで明け渡す奴がありますか」
「誰が気にするんだ、そんなもの。そもそもプライスが帰って来たなら、指揮を渡すのは当然だろう」
軽々と一笑に付したマクタビッシュに向かって、ゴーストは嘆息と共に肩を竦める。
「アンタのそういうとこ、ほんとローチそっくりですよ。いや、逆か? ローチがアンタに似たのか」
「何を訳のわからんことを」
マクタビッシュが怪訝そうに眉を寄せるが、ゴーストは徐に立ち上がり煙草を足で踏み消す。
「ま、いいさ。アンタはずっと俺達の大将だったんだ。アンタがそういうなら、異論はありませんよ」
そうして顔を上げた滅多に見ない彼の口元が、笑みの形を作っていたので、マクタビッシュは思わず、つられて笑ってしまった。指揮官としての働きを惜しまれるとは、思っていなかったからだ。
「あ、でもローチは多分、迂闊な発言しそうですけど」
「どういう意味だ?」
「アンタから指揮が移ったって話をローチにしたら、大袈裟に騒ぎそうだなっていう話ですよ」
「……ローチが? 何故?」
「あー……、まあ、次のブリーフィングが楽しみですね」
バラクラバを被り直したゴーストの予感は的中し、後の作戦会議はマクタビッシュにとって非常に気まずいものとなったが、それはまた、別の話である。
おまけ
「えっ!? 次から指揮官ってマクタビッシュ大尉じゃないんですか!?」
「……ふむ。サンダーソン軍曹は俺の指揮では不満か」
「いえっ!?そんなこと言ってないです!」
「俺は別に今のままでも構わんぞ。なあ、“マクタビッシュ大尉”?」
「プライス……。頼むから勘弁してくれ」
「慕われてますねえ」
「クソ、こういうことか。おい、ゴースト、笑うな」
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