荒涼とした風景は、生きるのに厳しい土地であると、目にする度実感する。
土地だけに限った話ではない。
ウルジクスタンは常に、列強の驚異に晒され、翻弄されて来た。果ては内部での争い、そして、外部からの武力的圧力にも。
そんな土地に生まれ、ただ其処に生きる。それだけで、過酷な運命に晒される人々は多い。
その全てを憂い、そして怒り、立ち上がった人達を、アレックスはよく知っていた。
そして今やそんな彼らの一員であることを、誇らしく思う。
拠点としている都市の哨戒を終えたアレックスは、重たい装備を担ぎ上げると、仲間の待つ根城に帰ろうとピックアップトラックを降りた。土埃の舞う道を歩いていると、ふと、道端に目を引く物を見つける。
それは小さいが、凛として咲き誇る一輪の白い花だった。
見慣れない花だ。アレックスには、その名前すらもわからなかった。
だが、この乾いた土地に根差し、背をまっすぐ伸ばして佇むその姿は、彼が担ぐ旗頭の姿を彷彿とさせる。
アレックスは足を止めると、その花の傍らにしゃがみ込み、ほんの僅かな逡巡を経て、その花を手折った。手にしてみれば、彼の大きな掌にさえ届かない、本当に小さな花だった。
彼は少しだけ微笑んで、大事そうにその花を手の中に納めると、彼女が待つ根城へと足を向ける。
外の強烈な日差し故に、一歩踏み入れると根城は何処も薄暗く感じた。しかし、彼にとっては既に慣れた感覚であった。
アレックスの姿を見留めた仲間は、アレックスの帰還を何れも親しげに労ってくれる。
彼もそれに応じながら、入り組んだ作りの建物を、過たず歩いて行く。
一つ地下に降りる階段を下ると、同じく薄暗い一室に、目的の人物を見つけた。
階段に背を向け、机に広げた地図をじっと睨んでいる。その背は、目にする度酷く華奢に思えた。
「ファラ」
呼びかけると、彼女は肩越しに振り返り、アレックスの姿を見るとその表情を和らげる。
「アレックス。戻ったか」
「ああ、ただいま。異常はなかったよ」
まだ、という言葉は付け加えなかった。しかし、彼女にはそれでも、そうと伝わったのだろう。
その表情は明らかに曇ってしまった。
「……そうか」
彼女が率いる解放軍は、先達てアメリカから、テロ指定組織と見做されていた。
列強に睨まれる恐怖を彼らはその身を以て知っているだけに、最近はずっと、誰も彼も緊張した面持ちをしていた。
彼女も、皆の前では悠然と振る舞っては居たが、一人になると、普段以上に思い詰めた面持ちをしていることを、アレックスはよく知っている。
無理からぬ事だった。
アレックスもまた、その身をもって、アメリカが敵と見做したものには容赦しないことを知っている。
しかし、アメリカから鞍替えして来たアレックスを、彼女を筆頭にして誰も疎む様子を見せないのは、彼女がアレックスを信用に足ると態度で示しているからに違いない。
アレックスは彼女も含め、新しく居場所と決めた此処を守らなければならない。
彼女らの硬い表情を見る度、そう思う。
「そうだ、ファラ」
アレックスはファラの傍へ足を進めて、手首を翻して、先程手の中に隠した花を手品のように取り出した。
「君に、土産だ」
目の前に差し出された小さな花を、ファラは大きな目を更に大きく見開いて、不思議そうに瞬く。
眼の前で小さく揺れた花に何を思ったかは定かではないが、アレックスとそれを見比べて、やがて困ったように笑うと、おずおずとそれに手を伸べる。
「……ありがとう」
そうして受け取った小さな花を両手で持つと、彼女は眉を下げて眺め入る。
「花を見る余裕など、随分……なかった」
そう零した声に滲む、僅かな寂寞。
アレックスは思わず息を呑んだ。彼女の言う随分と言うその期間は、どれくらいを指すのだろうか。
ファラはアレックスと出会う前から、ずっと、解放軍の指揮官だったのだとプライス大尉に聞いたことがある。周囲が彼女を軽視せず、敬う姿勢を見せることから、それが決して短くない期間であると物語っていた。
しかし、彼女はアレックスに対して、その日々の多くを語ろうとしない。決して幸福とは遠かったであろう日々を慮ると、アレックスも強くは訊けなかった。
「かわいいが、私には、不似合いだな」
たった一つの花を前に、そんなふうに自嘲する彼女を見ていれば自ずと知れる。
それを、歯痒く思った。
「どうして?」
彼女を覗き込んで問い、その余りに小さな手に囲われた小さな花を取り上げる。
アレックスは穏やかに微笑み、その花を彼女の耳にかけて、飾って見せる。
年頃の女性が持つ飾り気などまるで持たず、そして持つ暇さえ許されない彼女は、普段から化粧一つしない。けれども、アレックスが出会った中で、彼女ほど気高く美しい人は、他に居ない。
「君はとても綺麗だ。……似合うよ」
それは紛れもなく、彼の本音であった。
間近でその両の目がこれ以上なく丸くなり、
「かっ、からかうな!」
次いで、童女のように顔を染めて後退った彼女はしかし、耳に飾った花を退けようとはしなかった。
「これだから……! これだからアメリカ人は!」
「待ってくれ。冗談で言ってないぞ!」
肩を怒らせて出ていこうとするファラの手を取って引き止め、まるで子供のような癇癪を起こす彼女を宥めながら、アレックスは思い切り声を上げて笑った。
*** *** ***
一つの区切りを経て、もうすぐ五ヶ月になろうとしている。
その日、ファラはニコライからの連絡を受けて、ウルジクスタンの拠点の一つを目指していた。
ニコライ曰く、
『アンタに面会を希望している者がいる。解放軍の東の拠点の一つで、待っていてくれ』
とのことだった。
詳しい話は、訪れる客から聞いてほしいとのことで、幾ら詳細を訊ねたところで、彼は頑なに答えようとしなかった。
『会えばわかる。信用に足るやつだ。警戒は要らない』
その一点張りで不審極まりないが、ニコライは信用に足る人物で、彼女自身、彼には借りがある。
渋々それに答えて、彼女はその拠点に足を向けたのであった。
バルコフの一件が片付いたからといって、ウルジクスタンの全てが解決したわけではない。彼女は解放軍のリーダーとしてやるべきことが山積していた。
今回の戦いで、たくさんのものを失った。それは大きな犠牲と代償を経て、得た勝利だった。
欠けた空白は、大きい。
しかし、居なくなった彼ら、そして今共にいる者たちのため、ファラは休むことなく進み続けなければならなかった。それが、彼らに報いるということだ。失ったものを数えることが、彼らのために出来ることではない。
それに、一度立ち止まって喪失を数えたら、もう二度と進めなくなりそうだった。
ファラはトラックに揺られながら故郷の風景を眺め、やがて見覚えのある街にたどり着く。
「カリム。着いたぞ」
運転席から声がかかり、ファラは頷いてそれに応えた。
荷台から飛び降りて歩き出すと、道行く者達がそれぞれファラに恭しく敬意を示していく。ファラもまたそれに答えながら、解放軍の根城へと急いだ。
その途中、ファラは道端に咲く花を見つけて足を止めた。それはいつか、アレックスがファラにと贈った小さな花だった。
あの時の花は、永らえることも出来ず枯れてしまった。
彼女はそっと乾季の手前に咲き誇るその花に近づいて、指先で手折る。
懐かしいと、そう感じた。
けれど、まだあれから少ししか経っていない。
アレックスはファラをよく支えた。彼と過ごした期間はそんなに長くはなかったが、今もまだ時折、彼の姿を探してしまう。
器質として真面目で頑固なファラをからかうように、彼はどんな状況でも前向きで明るく、笑わせようとしてくれた。
彼を思うと、彼女はどんなときでも笑顔になれる気がした。
ふと笑って、彼女が彼を思い出していると、
「ファラ!」
すぐ近くの根城のほうから、切迫した声がかかって、彼女は身構えた。顔をあげると、根城の管理を命じている同士が、手を挙げて駆けてくる。
「ああ、やっと来た! 早く、こっちへ!」
「何かあったのか!?」
「説明は後よ! いいから早く!」
彼女はファラの手を引くと、強引に根城へ連れて行こうとする。
切迫してはいるが、その表情は明るい。声も弾んでいた。ファラは当惑しながら、言われる儘に進んでいく。
薄暗い根城へと足を踏み入れ、導かれる儘、地下へ続く階段を下る。
階段の中腹あたりで、同胞は振り返ってその顔に満面の笑みを浮かべ、
「私は此処まで。これは預かるわ。あと、此処はしばらく、人払いしてあるからね」
そう言い置いて、彼女はあろうことかファラが抱えていた銃を取り上げてから、元来た道を戻ってしまう。
「人払い……?」
ファラは困惑したまま、彼女の背を見つめていたが、答えが無いことがわかるとやがて嘆息を吐いて、階下を目指した。
警戒する必要がないと言われてはいるが、誰が待っているのかはわからない。注意深く階段を降りていくと、見慣れた一室が見えた。
そして、彼女は息を飲む。
窓一つない作戦室の広いテーブル。その上に置かれたランプの傍に、背の高い一人の男が立っている。階段のすぐ傍で立ちすくむ彼女に目を向けて、彼はふと、その面を和らげる。
それは、よく見知った笑みだ。
「……アレックス?」
「やあ、ファラ」
白昼夢だろうかと疑って呼びかけた、その震える呼び声に、間違いなく返答が帰る。
その穏やかな声音を聴いて、ファラは再び息を飲んだ。
手に握った儘だった、小さな花がするりとその手をすり抜けて、地に落ちる。彼はそれに気づいて、彼女の傍まで歩み寄った。彼は少しぎこちない動作で屈み込むと、地に落ちた小さな花を拾い上げる。
「……懐かしいな」
彼は笑い、以前そうした時と同じように、その花をファラの耳元に飾る。
頬をかすめた指先の体温は、高い。
ファラは恐る恐る、その腕に触れてみる。
「アレックス? 本当に、アレックスか?」
「ああ、そうだよ」
その腕の体温は、間違いなく血の通った人の物だ。決して、幻などではない。
「その、足は……?」
ファラはアレックスの左足に視線を落とす。一目で義足と分かるそれは、勿論、以前からのものではない。
だが、彼は何ともないことだとでも言いたげに肩を竦めた。
「ドジを踏んで無くしてね。大丈夫、たいしたことない」
その返答を聞いた刹那、強い衝動がファラを突き動かした。
「生きていたなら!!!」
思わず、その襟元に掴みかかる。彼女より随分と上背のある彼が、ぎょっと目を見開くのを無視して、引き寄せた。
間近で睨み上げて、その瞳に映る自身の姿が見えた。これ以上無く、歪んだ顔が。
まるで子供のように、泣きそうな顔をしている。それが見ていられなくて、ファラは俯いた。
「生きていたなら……、何故、もっと早く……」
それ以上は、言葉にならない。喉の奥が塞がって、目の奥に何か熱いものがこみ上げてくる。それは身に馴染んだ感覚だったが、その決壊を許してはいけないものだった。
それを耐えることは得意だった。いつだって、そうしてきたからだ。
彼女は顔を伏せて、いつも通りそれをやり過ごすつもりでいた。そう出来たはずだった。
「遅れてすまない。でも、生きて帰ったら、君が泣いて喜んでくれるかと思って」
「何を、馬鹿な……」
「そうしてくれないのか?」
そうして彼がちっとも悪びれない様子で、彼女を引き寄せたりしなければ。
まるで親しい間柄の者達がそうするように、顎の下に頭を抱え込まれて、宥めるように背をやんわりと叩かれる。
突然のことに驚いた拍子に、抑えてたものが決壊した。
ひくりと震えた喉、目の縁に辛うじて留まっていたそれは、いとも容易く堰を切った。
そこからは、済し崩しだった。
せめて嗚咽などは零すまいと唇を噛み、掴んだ儘だった彼の襟を離して、抗議代わりに胸を強めに叩く。
「いてて」
アレックスは呻いて笑いながら、それでも、彼女を離そうとはしなかった。
聞こえ始めたしゃくり上げる音に、
「大声で泣いてくれると思ったのになあ」
などと、アレックスは冗談まで言うので、まるで子供扱いのように頭を撫でる手を撥ね除けてやった。ファラは其の儘大暴れしてやりたいという衝動に駆られたが、そうすると、泣き顔を見られてしまうことになる。結局、彼女は顔を上げられなかった。
アレックスはきっと今頃笑っているのだろうと思うと、憤懣遣る方ない。後で絶対に殴り飛ばしてやると、物騒な決意を固めてから、彼女は其の儘彼の服で涙を拭う。
すると、矢張りすぐ上から息を吐くように笑う音がして、
「ファラ。ただいま」
そんな事を言う。
途端に胸が苦しくなって、彼女は何度も頷くことでそれに答えた。
そうして彼は、彼女が顔を上げられるようになるまで、いつまでもいつまでも、そうしていた。
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